
「ヤンダー」 ー 愛と死を絵画のように眺める近未来の鎮魂歌
★★★★★
タイトルから何も想像できず、ただ安楽死が合法化された世界の話とだけ聞いて観始めたのですが、想像以上…というか、想像したものをものすごく煮詰めて結晶化したような世界観でした。どことなく映画「インセプション」を連想させるつくりではありますが、静かに美しく、淡々と進んでいく物語。最初はこれがミステリーなのかヒューマンドラマなのかロマンスなのか、まったく分かりません。ただただ綺麗な絵を眺めているような気持ちになり、胸の奥を掴まれるような切ない痛みをおぼえました。そして表皮が剥がれ落ちるように次第に輪郭が見えてくる真理に、「ああ、そうだよな」と、初めからどこかで分かっていたことを明確に再確認するのです。
2032年、安楽死法によって合法的に安楽死を迎えることができるシステムが整備された社会。チャ・イフ(ハン・ジミン)は余命宣告を受け安楽死を希望しています。医師がイフの家を訪れ、死の準備を整えると去っていきました。それを見送る夫のキム・ジェヒョン(シン・ハギュン)。あとは最期の別れを済ませてボタンを押せば安楽死が完了するのです。するとそこにセイレーンと名乗る女性(イ・ジョンウン)がやってきます。彼女はイフととある契約を交わしたと言いますが詳しい内容は教えてくれません。イフに言われるままに部屋を出て待つジェヒョン。その間にセイレーンはイフに何かの装置を取り付けます。セイレーンも去り、ついにジェヒョンはイフの安楽死を実行します。そして眠るように逝くイフ。
葬儀を終えて友人と酒を酌み交わし、翌朝目覚めたジェヒョン。すると彼のもとにイフから動画メールが届きます。初めはいたずらかと相手にしなかったジェヒョンでしたが、メールを開いてみるとそこにはふたりの思い出の場所からジェヒョンに話しかけるイフの姿が。まるで生きているかのようにイフを語り出します。「死ぬ前に言えなくてごめんなさい。私、ここにいるの」と。
愛する人との生涯の別れは、たいていの人にとって受け入れがたいものでしょう。死してなお側にいられるならば、そんな素敵なことはありません。ですが死を超えていこうとしたら、永遠を求めるしかないのです。永遠というのはどこまでも続く時間のことなのか、それとも止まった時間のことなのか。いずれにしたって、それが本当に幸せを意味するものなのかは分かりません。必ずしも答えのない問いかけに挑む物語に悪役はいないのだと思います。
亡くなった人々が死の後に暮らしているヤンダーという世界。ドラマではヤンダーでのとても幸せな時間も描かれます。そこでの生を選んだ人々が間違っているとは簡単に言えませんし、ヤンダーが正しいのか過ちなのか結論が出るわけでもない気がします。イフの想いはとても人間的で、ジェヒョンへの愛と感情の揺らぎがダイレクトに伝わってくるようでした。一方でジェヒョンは、愛する人のまさかの選択に初めは戸惑い、ですが次第に抑えられない恋しさに引きずられてゆき、泡沫の夢の中で残酷な真実を悟ることになります。ハン・ジミンとシン・ハギュンという強力で強烈なふたりの役者が、この表面は穏やかでありながらうちに苦しくて愛しい渦を抱える深海のような夫婦を静かに、丁寧に紡いでいました。イフとの再会を受け入れたジェヒョンが見せる笑顔が本当にこのドラマのハイライトです。
1話が約30分の計6話という構成はもはや映画。心地よいテンポと転調であっという間に見終えてしまいましたが、どこまでも美しく、騒ぎ立てることをせず、一行一行が整然と綴られる小説のような世界に魅了されました。決して物語に華やかな緩急があるわけではないので好みは分かれるのかもしれませんが、私は他にないような胸の奥に響く面白さを感じました。形の定まらない愛と如何ともし難い死がせめぎ合うとき人が迷い込む樹海は、思うより遥かに深くて方向感覚を奪うものなのでしょう。でもそこで迷子になることが不幸とは限りません。愛も死も、人それぞれなのです。
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