人生初のショートカットが教えてくれたこと
脚は、階段の高さを憶えていた。
扉の重さは、今日初めて知った。
待ち合わせの場所。
ここで、何度も見た彼の後ろ姿をなぞる。
傾けた首の角度まで鮮明に。
胸がきりりと痛んで、
まだ好きだということを認める。
湧き上がってきそうなそれを
ぐっと押し込んで、
ずんずんと歩みを進めた。
感傷的になっている時間はない。
美容院の予約時間が迫っている。
今から、人生で初めて
”ショートカット”にする。
過去どの美容師さんにも
無理だと言われてきた憧れ。
はやく違う自分になりたくて、
一歩を踏みしめた。
・
・
・
2020年の春。
緊急事態宣言が出た頃、
愛しているとおもっていた人に
突然会えなくなった。
”緊急”事態なんてすぐに終わると、
その頃はまだ非日常を楽しんでいた。
休みなく働いていた日々から解放されて、
毎日おなじ時間にご飯を食べることや
テレビを観ながら笑うことが嬉しかった。
連絡手段はあったし、
電話もビデオ通話もできた。
何より他に考えることが山ほどあったから
異変を感じなかったのかもしれない。
次第に悠長なことは言えなくなる。
帰ったらすぐにお風呂へ、
それが億劫で外出を極力しなくなり、
電車に乗ることも怖くなっていった。
そして、
ある日気づいてしまった。
この先、彼と近くにいられないこと
関係を続けられないことに。
これを機に離れた方がいいと
ずっとおもっていたことに。
・
私は、あたらしいことを探した。
おなじ場所でおなじ日々を続けるには、
あたらしいことが必要だった。
のめり込めるものを見つけて
夢中になっても。
毎日やりたいことができて、
出会いの刺激に翻弄されても。
ぷかぷか浮いていたままの
愛する気持ちには、どうしても
手をつけることができない日が続いた。
静寂が満ちてゆく夜更け。
SNSを検索してしまう。
過去のメッセージを遡ってしまう。
良いことなんてないと分かっていても
思い出の曲に触れたとき、
もらった本が目に入ったとき、
相談したいなと顔が浮かんだとき、
不意に手が動いてしまった。
抗えなくて、ただただ
黒い気持ちをじっと見つめた。
どうしようもない罪悪感。
のみ込まれるなんて理不尽だ。
今回は、絶対に嫌だった。
・
髪を切ろう。
すこし落ち着いてきた7月の末、
美容院の予約をいれた。
私の髪は、とにかく量が多い。
人の5倍くらいと言われる。
癖もあって膨らみやすいから、
美容師さんは短くすることを嫌がった。
学生時代から美容室は同じだけれど
順に担当の人が独立して、
今は3人目の彼にお世話になっている。
担当としてもらった初日、
「朝ちゃんと手入れするなら
ショートにできますよ」
彼は、さらりと言ったのだった。
不審そうな目の私に
「似合うとおもうんすよねえ」
続けて、こうも言ったのだった。
一年ほど、準備を進めてきた。
手に負えなくなるギリギリまで
美容院に行かなかった私が
まめに通うようになり、
彼も私の髪を理解してくれて。
「もう、いつ切っても大丈夫すよ」
黒い気持ちを見つめつづけた夜。
ドライで冷静な声に、光を見た。
・
「ついに決意したんすねえ」
相変わらず乾いているものの、
すこし弾んだ声が耳に届く。
10cmは切っただろうか。
一度乾かしてからが正念場。
毛量をぐんぐん減らしていく。
「ここ特に量多いんで、削りとりますね」
余程不安そうな目をしていたのか、
手順を丁寧に説明してくれる。
もう、後戻りはできない。
大丈夫よね、と
確かめたくなったけれど、
あなたは隣にいない。
そういうことだ。
後戻りは、しないのだ。
・
「似合ってる。」
自分でも、そう思った。
マスクをしていても分かるくらい
私は、晴れやかな表情をしていた。
緊張していたから、
すこし身体が怠かったけど
数年分のあれこれを美容室に置いて
帰路についた。
・
雪が積もってすっかり寒くなった頃。
あの、どうしようもない淋しさを
今年は感じていないことに気づいた。
彼の誕生日が過ぎていた。
一ヶ月以上、気づかなかった。
ふふっと笑えてきて、
こぼれそうな星空を見上げる。
ああ、スムーズだ。
自然に上を見ることができる。
私の頭は、もう軽い。
・
・
・
愛したことをなかったことに
するつもりはない。
なかったことにすることは、
記憶にブラックホールをつくるようなもので
未来さえも吸いこんで
真っ黒にしてしまうと感じるから。
じゃあ、どうやって
愛した過去と一緒に生きていこうか。
ふと、それは
”ショートカット”との向き合い方に
似ていると思った。
すこしずつ練習をして
慣らして習慣をつくって、
軽さを手にすること。
ありたい私でいるための努力。
あんなに無理だと言われ続けた
”ショートカット”が出来たのだから。
「大丈夫。」
軽くなった私は、
空を味方に進んでいく。