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「心」の観点から見たインタビュアー〜「謙虚」が生むこと

勤務先の社内チャットで時々「ゲーム関連の調査をしたいのだが、ゲーム領域に強いインタビュアーを知らないか?」といった書き込みを見かけます。私はその度に「またこんなことを言ってるのか」とうんざりした気持ちになります。意識マトリクス理論が解き明かしているように、業界や商品の知識を持てば持つほど、アスキングでS/C領域に侵入するリスクが高まるからです。また、その知識があるが故に、対象者の言葉が「わかった気」になり、具体化や構造化がおろそかになりがちです。

この「わかった気」になることを防ぐのが「謙虚」です。それがあれば、わかった気になっている自分に対して、もう一人の自分が「本当にわかっているのか?」と問いかけてくるわけです。わかった気になりがちなのは、あまり知識のないインタビュアーよりも業界や商品の知識があるインタビュアーの方です。つまり、「主体の分裂」ができなければ、そのような知識が無い方が有利であるとさえいえるわけです。

師匠の油谷先生からお聞きした体験談ですが、女性対象に「コンドームの使用感」のインタビューをされたことがあったそうです。先生は男性です。その時の経験として「いや~お互いに照れて笑っちゃってインタビューにならなかったんだよ」と仰ってましたがそれは先生の謙遜であったでしょう。他の例、自分の例を思い返しても、例えば「男性のインタビュアーで生理を話題にする」ということについて同意をして参加された方ならば、「私は男性なので生理のことはよくわかりませんから、そのつもりでわかるようにお話しいただけるでしょうか?」というアプローチをすれば、意外と女性は親切に聞かせてくれるものです。むしろ代わりのインタビュアーを立てようと思えばいくらでも可能だった先生があえてそのようなインタビューに挑まれたのは、むしろその効果を狙ってのことだったのではないかと推測するわけです。特に「使用感」というのは、ただでさえなかなかに表現が難しいものであるわけですから、それを男性相手に話そうとすると、女性相手よりも様々な表現を駆使する必要があると考えられるわけです。つまり、意外とより具体的な情報になる可能性があるということなのです。

このような場合の男性インタビュアーはただ「聴かせて」いただく以外にはないわけです。すなわち「傾聴」です。しかしそれこそがインタビューでより情報を引き出すための極意であるわけです。これは例えば、野球のシロートが野球についてイチロー選手にインタビューするといったような場合にも共通することでしょう。

シロートは「質問」などという大それたことはしてはならないのです。

しかし、「普通の主婦」にインタビューする場合というのも実は同じことです。彼女たちは「主婦のプロ」であるわけですから、我々企業人が知らない体験、持たない観点や論理を持っています。それを知るために定性調査は行われます。つまり質問で迫ろうというような大それたことはやってはならないのです。謙虚に傾聴するしかないわけです。

さて、もう一人の自分が「お前、わかった気になってるぞ」と常に監視をしている上にさらに、「わかった表情をするな、わからない表情をしておけ」といった指示を出してくるようになれば、インタビュアーは「わからないフリ」の演技ができるようになります。もう一人の師匠の梅澤先生はいつも「頭はフル回転させていても、口はポカンと開けておけ」と仰っていました。「頭フル回転」とは、主観をどんどんと分裂させ入れ替えていることだと解釈できます。先生はよく「頭の中で何人かを議論させている」とも仰っていました。その分裂させたもう一人の自分がインタビュアーの自分に「わからないフリ」をさせるわけです。その「フリ」が「わからない様子だからもっと話してあげよう」と対象者の発言の意欲を高めるわけです。それは「テクニック」でもあるのですが、その根源には「謙虚」があるわけです。

これは世間のアスキングのインタビューでは逆に、インタビュアーは「わかった様子」でなければならないと思われています。だからこそ「専門知識のある人」ということになりますが、これは一面の事実ではあろうと思います。それは、対象者は「そもそもよくわからない質問、ナンセンスな質問になんとか答えているのに、わからない様子をされると感情が逆なでされる」ということではないかと考えられます。これはイチロー選手が「バッティングの極意」などという質問をシロートの記者からされ、それになんとか答えたときに「ポカンとされた」場合のことを想像してみればよいかと思われます。本当は「わかったフリ」をされても、トンチンカンな質問をされた時点で決して良い感情は持たれていないとは推察されますが、どちらにせよ、対象者は話す意欲を下げてしまうことになります。

このようにアスキングとリスニングでは全くその論理が違っているわけですが、話せないことを訊き出そうとするよりも、話したいことを自由に話してもらった方が、情報の質、量ともに高くなることは言うまでもありません。専門知識はアスキングの観点を増やしはしますが、対象者はそれに答えられるとは限りませんし、むしろ専門知識のある調査主体のプロたちが知らないこと、理解できないことを定性調査は明らかにしようとするものです。それには「生活・消費のプロ」たる生活者、消費者の話を謙虚に傾聴させていただくしかないわけです。

専門知識によって「知らないこと、話せないことが訊き出せる」と考えるのは正に「傲慢」以外の何ものでもありません。

これはちょっと観点の違った話ですが、インタビュー中に対象者からインタビュアーに質問がされることがあります。例えば商品コンセプトについて「値段はいくらなんですか?」であったり、「パッケージの大きさはどれくらいなんですか?」といった具合です。

知識がありかつ「分裂」ができないインタビュアーはこれに答えてしまいます。ところが分裂ができるインタビュアーはこれには答えません。その代わりに「私もメーカーの人間ではないのでお答えできないのですが、どうしてそこが疑問に思われるのでしょうか?」と適宜確認を返すという瞬発的なテクニックがあります。

この時、「分裂」ができるインタビュアーはまず対象者の見方になって、「このコンセプトでは価格が気になる」とか「評価しろと言われても、まず、パッケージの大きさがわからない」といった「言葉にならない評価」を感知しています。次に、そのような「評価」になる理由や背景が分からないでいる自分や調査主体側を自覚し、それを確認しようとしてそのような適宜確認を返すのだ、と説明することができます。それによって、それらが疑問になる背景となっている対象者の生活実態や認識があぶり出されていくわけです。

「分裂」ができないインタビュアーはただ、自分が訊きたいこと、訊こうと思っていることしか認識していませんから、それを訊き出すための障害になるこのような質問にはすぐに答えてしまいます。当然、それ以外のこのような「言葉にならない評価」を感知することができませんし、その背景も潜在したままになります。それで、情報に厚みが出てこなくなるわけです。

これが「謙虚」なインタビュアーと「傲慢」なインタビュアーの差に他なりません。

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