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インタビュー調査の科学的分析法~「言った通り」ではないということ①

ここまでで、インタビュー調査の分析について、理論、事例、応用などについてご紹介してきました。その中でたびたび出てきているのは「真実は対象者の言った通りではない」ということです。

この点が、インタビュー調査をアスキングと捉えるのか、リスニングと捉えるのかの最大の差であるかと思います。アスキングというのは結局、課題に対して対象者のコトバで答えを出そうとする行為です。一方、リスニングとは、対象者のコトバを媒介にはするものの、この分析編でご紹介したように、相当に高度な分析を行って答えを出そうとする行為です。

人間ですから、言ってることとやってることが違うとか、ホンネとタテマエがあるとか、無意識のことがあるとか、表現できないことがあるとか、言いたくないことがあるとか…それらは当然のことなのです。また、シロートの対象者がマーケティング課題に対して核心的なことを言えるはずもなく、もしそれができるのならば、マーケティング担当はその対象者と交代したほうが良いわけです(笑)

つまりは、インタビュー調査のときにだけ、対象者の言ったことをそのまま真に受ける方が、あるいは質問に対して正しく答えると考えている方が、不自然だということです。特に、慣れない場で見も知らない人に話をするのなら、言葉と真実の間にはなにがしかのギャップがあるのは当然のことなのです。

それについて、いくつかの体験をご紹介したいと思います。

「言った・言わない」問題

コロナ禍になってから行ったある健康・美容関係のグループインタビュー調査である対象者が「マスクをするようになったので口元から目の周りにメイクのポイントが変わった。目尻の皺も気になるようになった。」と発言しました。他の対象者もそれに同意し、しばし目尻の皺対策の話となりました。

さて、このインタビューの後にクライアントと共にインタビュー分析のワークショップを行いました。その際、「目の下のたるみは気になっていないのか?」という議論になり、否定派の人は「そんなことは一言も言っていない」ことを根拠としました。

これは事実としては全く正しく、反論の余地はありません。

しかし、「マスクをするようになった」→「目の周りに意識が向きメイクのポイントが目の周りに変わった」→「それに伴い目尻の皺が気になるようになった」というロジックにおいては、「目の下のたるみ」は当然気になるはずです。そればかりか、瞼の垂れ下がり、むくみ、瞳の濁り、充血、まつ毛、眉毛、額の皺やテカリ、前髪、生え際などなどにも意識が以前より向いていると考えるのが妥当です。しかし、たまたま、このグループの数人の中では目尻の皺の問題しか顕在化しなかったと考えるべきでしょう。

果たして、その仮説が妥当なのかは追って検証のための量的調査を行えば良いだけのことです。それよりも、「言った・言わない」の議論で潜在的な機会を潰してしまうことの方が遥かに問題であるわけです。

わざわざコストをかけて定性調査を行うのならばどちらが望ましい態度であるのかは言うまでもないでしょう。

この否定派の人の例のようにマーケティングリサーチの結果を自らの発想を限定するために使っている人はむしろ多数派だと思われますが、マーケティングリサーチとはむしろ発想を広げるために使うべきものです。

それは量的調査においても同様だと思います。

沈黙や無発言にすら意味を読み取れる

アスキングにおいては、質問に対して回答を得ないことにはどうにもなりませんから、インタビューにおける対象者の「沈黙」というのは最も恐れられる事態であるわけです。なので、対象者がしゃべらないでいると、次から次へと質問を連発して対象者を質問責めにするわけです。世間ではその質問責めがより「ドS」な人がより良いインタビュアーだと思われているわけです。

しかし意識マトリクス理論は、そのような「ドSアスキング」は対象者をSMならぬS/C領域に追い込み、タテマエやウソを言わせてしまう原因であることを明らかにしました。また、そもそも「話せないこと」を問い詰めているわけですから、その質問責め自体が沈黙の原因にもなっているというパラドクスも明らかにしているのです。つまり「ドS」インタビュアーというのは、世間の評価や認識とは裏腹に実はダメなインタビュアーだと言えるわけです。

一方、ALIの場合は、話題に対して「自由に話していい」し、「話せることが無ければ無理に話さなくていい=話すことはないと言ってよい」という条件で実施されます。つまり、自発的に発言されなかったということには「そのことについては話すことはなかった」=「意識されていなかった」という意味が出てきます。これはアスキングにおいての「聞かれなかったから話さなかった」とは圧倒的な違いです。聞かれなかったから話さなかった可能性があるというのでは、意識されているのかいないのかの判断ができません。故にすべてを質問しなければならなくなるわけです。話さなかったことには意味が見出されないのです。

例えば、自発的に発言するリスニング(ALI)においては当然、より意識されていること、意識ウエイトの高いことから発言されますが、ある商品の評価において誰も自発的に価格については触れないし、念の為に適宜確認として価格を話題にしても沈黙であったような場合は、対象者はその商品の評価軸として価格という観点は持っていない、気にしていない、という判断ができるわけです。

一方アスキングでは、価格についての質問が行われず、そのために価格についての発言が得られなかった場合、対象者が価格について重視しているのか、いないのかの判断を行うことは不可能です。それ故にすべてを質問しなければならなくなるわけですが、そんなことも不可能です。また、聞かれたから答えていることと、本音で意識していることの識別も困難です。

アスキングでは発言間の意識ウエイトの差が読み取れない一方で、リスニングではそれが可能で、さらに無発言や沈黙からすら意味が読み取れるわけです。

この例はわかりやすく「価格」としましたが、商品の評価軸においては、企業側が気づいておらず、しかもそれがキーポイントであることが多々あります。そのような評価軸は自発的な発言では出てくるわけですが、アスキングでは潜在してしまうわけです。その一方でアスキングでは、キーポイントではないことを質問項目としているために、話せないこと、重要ではないことを必死に質問責めをしているということが起きてしまうわけです。

つづく


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