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3ヵ月で3回、車をぶつけられて思うこと。
2度あることは、3度ある。
あるのかしら。あるみたいです。
昨年秋~今冬にかけて実に3回、駐車・停車中に車をぶつけられている。
私の運転中の出来事ならドライビングテクニックについて反省のしようもあるのだが、すべて愛車は枠内で完全に停まっていたときゆえ、それも難しい。「色んな意味で引き寄せが強すぎる」「取り憑かれているのでは」と多数の人からお祓い等に行くよう勧められた。(実際に行った。)
相手のあることなので詳細は控えるが、ざっくり下記のとおりである。
1回目:当て逃げ(相手見つからず)
2回目:当て逃げ(後日、相手見つかる)
3回目:事故(相手がその場で名乗り出る)
※ちなみにお祓いは、2回目と3回目の間に行った。
1回目の当て逃げで騒いでいた時の自身のメンタリティについて、今ではもはや可愛らしく感じる。
案ずるな、君はより多彩なヴァリエーションを経験することになる。
色んな人がいる、この世の中で。
事故の相手、警察の方、保険会社、車屋さん。
月イチペースで事故に遭うので、望まずして対応に慣れてくる。自分の非を認めないことを最優先とする人もいたし、こちらが恐縮するほどに丁寧にケアしてくれる人もいる。罪を認めて贖おうとする人もいるし、逃げ切れるところまで逃げ切ろうという人もいる。
あるケースの際、来てくれた若い警察官は明らかに事故対応に倦んでいて、こちらが聞いてもいないうちから「とにかく相手が見つかる保証はないので」と何度も繰り返した。
彼はもしかしたら過去に「事故相手が見つからないとはどういうことだ!」とクレームを受けたことがあるのかもしれない。若しくは新人研修で「期待させるようなことは絶対に言うなよ。」と口酸っぱく教育されたのかもしれない。どちらにせよ、事故でショックを受けている対象者を気遣うつもりはなさそうだ。
すると、彼のバディである彼より20歳ほど年上に見えるお巡りさんが「彼の言葉では誤解されるかもしれないですが、警察としても出来る限りの捜査はさせていただきますので。」とやんわりフォローしてくれた。
色んな人がいる、ほんとうに。
時折、酔ってしまいそうになるほどに。
どれがスタンダードかということは、
残念ながら多分ない。
自己憐憫に陥らない。
事故が続き、辛かったことは何だろう。
自費で修理した分もあるので、つねに風邪気味状態である我がお財布が、インフルエンザくらいに悪化したことだろうか。
顔も知らない相手とのやり取りや修理見積もりに時間をとられ、慣れない代車生活を強いられていることだろうか。
たぶん、違う。
「なぜ私ばかりがこんな目にあうのか。」と考えずにはいられないことが、最も辛かったように思う。そして、そんな自分のひ弱さ・みじめったらしさがひどく不愉快だった。
プーラナ・カッサパの道徳否定論を展開したいわけではないが、真面目に生きていても、罪を犯さなくても、災厄に見舞われることは誰しもある。それは史実が証明している。
平和ボケした私の知らざるところで、侵され、奪われる人は今この瞬間も存在している。
当て逃げごとき、何ほどのことだと言うのだろう。
私が悪だから事故に遭うわけでもなく、私が善だから平穏無事というわけでもないのだ。
美しい呼吸ひとつ、教えてくれること。
ヨガを始めて変わったのは「物事を受け入れる」力が育ったこと。
ヨガは万人を幸福に導くために伝来されてきた行法だが、ヨガの練習を重ねようとも生老病死・愛別離苦…かなしいことは無くならない。
すべてのものが、この手のなかを通り過ぎる。
けれど、呼吸や瞑想・アサナ(ポーズ)をもって心身を浄化すること・祈ることは、変化は起こるものだと教えてくれた。そして、それを哀しむ必要は無いのだと。
まずは3回の事故を経ても、
自身が無事であることに感謝したい。
noteを通じて、それを誰かに伝えられることにも。
ていねいに、美しい呼吸ひとつ。
今日も元気に生きてゆく。
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