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はじまりのはなし…恐怖感⑧

「恐れとは無知の現れなのです…暗闇を恐れる事が正にそれを露呈しているでしょう。見えないだけで…解らないだけで…知らないだけで恐ろしいのです。
なんて臆病な事でしょう…放てども放てども一粒の光では一片の闇も照らせはしないのに…それでも逃れよう、逃れようと...ただ徒らに虚無を照らし続けるのです」

手首を切った彼女の第一発見者は僕だった…ナースコールを連打したり、大声で彼女の名前を泣き叫んだり…パニックになりながらも、そんな恥ずかしい姿を晒している自分を俯瞰して見ている様な、もう一人の自分がいた。
そのもう一人の自分が、記憶の中で現状に至った原因を探り始めた。

前日の彼女は、退院したら台湾に行って本場のタピオカと仙草ゼリーが食べたいと笑って話していた。
その前の日には、夢にアラレちゃんが出て来たとかで、これは何か幸運の前兆に違いないと力説していた。
その前の日には小学生の頃に飼っていた亀の名前がポチだったとかで、犬みたいな名前を付けてしまったお詫びを込めて亀らしい戒名を考えて欲しいとお願いされた。

その前の日は…前の前は…前の前の前は…

何も思い当たらなかった。

強いて言うならば彼女の過去ではなく、僕の過去に酷似した経験があるが、それとこれとは別の話で、因果関係なんてないだろうし...結局何も分からないまま、取り乱して彼女にしがみ付こうとしていた僕は、屈強な男性の看護師さん二人に、病室の外まで引き摺られて追い出されてしまった。

その頃の彼女は、退院の時期が検討される程に回復しており、入院前の無邪気で明るい彼女に戻ったようだった。僕はそんな彼女に、退院できたその暁には…改めてプロポーズしよう…そんな事さえ考えていた。

全てが元に戻る。そんな期待から僕は浮かれていたのかもしれない...油断していたのだろう。

幸い彼女の傷は浅く…命に別状はなかった。看護師さんに促され僕は放心状態のまま、半ば強引に家へと帰された。
そして、自宅に着いて程なく…ふとある事に気が付いた。
何気なく冷蔵庫の横に掛けてあるカレンダーに目をやると、その日のカレンダーには可愛いらしいリボンの形をしたシールが貼ってあった。
彼女の自殺未遂と明確に関係があるとは言い切れないが、その日はちょうど彼女の出産予定日だった。

忘れていなかったのだろうか?…覚えていたのだろうか?…思い出したのだろうか?…それとも、偶然の一致だったのだろうか?

ちゃんと病院で調べた訳ではなく…出産予定日を計算するアプリで適当に算出した不確かな予定日だった。
それでも彼女は嬉しそうな顔を浮かべながら、シールの下に赤い油性のマジックで出産予定日と書き込んでいた。

息子だったのか…娘だったのか…それは分からないが、その日に彼女は母親になる筈だった…その日に僕は父親になる筈だった…その日に僕達は家族になる筈だった。

その全てが叶わなかった…

苦しい…苦しい…苦しい...

酸っぱい胃液が喉の奥まで登って来て吐きそうになる。
咄嗟にトイレに駆け込もうとドアノブを握った瞬間に…手首から鮮血を垂れ流す彼女が赤く染まったベッドに横たわる姿がフラッシュバックした。

恐怖が走る…背筋が凍る…脂汗がでる...

僕はドアノブを握ったまま嘔吐した。

吐瀉物で汚れた衣服を脱いで、真っ裸で正座しながら、そのワイシャツやらネクタイ…靴下まで使って床を拭いた。そして、腰に巻いていたベルトもポケットに入ったハンカチやレシートもそのまま一緒にゴミ袋に入れた。袋の口をキツく縛った後、キッチンで口を濯いでから、一糸纏わず布団に入り眠りに就いた。

僕の頭の整理が付かないまま、直ぐには眠れないだろうと覚悟していたが…疲労した身体は簡単に睡魔を受け入れて、意識は即座に薄れていった。

「ねぇ」

「ん?」

「飛び降り自殺をする人って信じられないと思わない?」

「自殺をする人が?」

「バンジージャンプする人もスゴイと思う…怖くないのかなって…」

「高い所が苦手かどうかって話?」

「そう、私は高所恐怖症だから...」

初耳だった...彼女と出会ってから、そんな話は聞いた事がない。寧ろ自分の方が高い所が苦手と言う事で、遊園地のデートが楽しめないと残念そうにしていた様な気がする。

彼女が今まで黙っていたのか...隠していたのかは分からない。記憶の断片が散らばっていて、何が本当なのかも判断が出来ない。でも、昔から知っていた様な、妙な既視感と違和感がある。それでも、何事も無かったかのように・・・僕は不自然に会話を続けている。

「いつから怖いと思うようになった?」

「覚えてない…物心付いた時にはもう怖かったかなぁ…お母さんがね、一緒に克服しようって私の誕生日には決まって東京タワーに登るの…嫌だったなぁ〜。でも、その後に食べたお子様ランチの味は忘れられないかなぁ…」

「いい思い出だね…」

僕は彼女とは違い、幼い頃は高い所が好きだった。僕の実家の裏庭には、プラタナスの木がある。秋になって掌のような大きな葉を落とす頃、プラタナスは甘い香気を放つ、雨の降った後などは二階の部屋まで湿った匂いが届いていた。母には秘密にしていたが、婿養子の父はその匂いが嫌いで堪らなかったらしく、松か梅にでも植え替えたいとよくボヤいていた。

けれども僕は何故だかその匂いに独特なエロチズムを感じていた。
初めはその香りに誘われた事がきっかけだったのかもしれない…それから僕は毎日その木に登り、木の上から沈む夕日を眺める事が日課になった。
誰に教わった訳でもないのに、怖がる事もなく器用にスイスイと登っていた。現代に生きる自分の中にも北京原人かアウストラロピテクスの遺伝子が残っていたのかもしれない…

「また裏庭の木に登ってたの?」

「うん」

「そう…」

「怒らないの?」

「お母さんの兄さんも、学生時代によく登ってたなぁ…双眼鏡を首から下げて器用に登ってた…」

どうやら木登りの遺伝子は三親等以内にいたらしい。夕飯の支度をしながら話掛けて来た母は、機嫌が良かったのか…その日は珍しく伯父さんの事を色々と話した。
サッカー部のキャプテンをしていたとか、絵を描くのが上手かったとか…高校生の頃には女生徒達の間でファンクラブがあったとか…
残念ながらその伯父さんは東京のデザイン系の学校に進学し、卒業を前に若くして亡くなったらしい…

母は病死だと言っていたが、「なんて病気?」と聞くと急に青ざめた顔をして黙りこくってしまった。

そんなある日、プラタナスの木に登ると…いつも腰掛けている太い枝の所に、縄で括ったような痕がある事に気が付いた。
もしかすると、誰かが此処で首を吊ったのかもしれない…そう思った瞬間に僕は手を滑らせて地面へと叩きつけられてしまった。左腕の複雑骨折で、骨を鉄板やボルトで固定するインプラント手術を受ける程の大怪我だった。

「えっ、痛そう」

「それからは脚立に登る事も出来なくて…」

「トラウマだね…」

「まぁ…人生で一番死に近づいた体験だったかなぁ…」

「そうだね…人間って最終的に死ぬ事が怖いんだろうね…ホラー映画だって幽霊が出たり、エイリアンが出たり…色々でしょ?でも結局は、何が怖いって最後に死ぬ事が怖いんだよね」

確かにその通りだ。普段の彼女の発言は、的外れでトンチンカンな事ばかりだが、時折芯を食ったような事を言って僕を驚かせる。
僕はそれまで恐いと思う対象の共通点など考えた事もなく、ただ恐いという感覚に怯えていたが、蓋を開けてしまえば、恐怖という対象の先には、〝死〟というものが、必ずぶら下っているのかもしれない。

「死んだら何処に行くと思う?」

「ん…何処に行くのかなぁ?」

「知らないの?…学校で習わなかった?」

「いや、そんな事習わないでしょ…」

「どうして?」

「どうしてって、誰も知らないから…」

「あなたが知ろうとしてないんじゃない?」

「何の話?」

「だから怖いんだよ」

「えっ?」

「ほら…怖くて泣いてるじゃない」

薄い壁の向こうから赤ちゃんの泣き声が聞こえていた。
あの時はちょうど隣の若夫婦に娘が産まれたばかりで…夜泣き真っ盛りだった。
布団の中で胎児のように両膝を抱えながら、丸くなって眠っていた僕には妙に共時性を感じる目覚ましだった事を今でもよく覚えている。

あの日見た夢を最近になって何度も見る…アパートを囲む街路樹のプラタナスの香りが、部屋まで届いているからだろうか…


続く

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