はじまりのはなし…光の粒②
病院に到着したなり、看護婦さんが酷い形相で駆け寄って来た。
「今は落ち着いたんですけど…彼女さん…先程まで一時間くらいずっと泣きっぱなしだったんです。お電話しようかと、婦長にも相談したんですが…午前中は様子を見ようって言われて…私は前の事もあったので、すぐにでもって思ったんですが……でも、安心して下さい。…今は落ち着いてますから…」
眠気と疲れで朦朧としていた意識から、無理矢理叩き起こされる様な言葉に、ドクドクと心臓の音が高鳴った...
耳の奥まで心臓が登って来たのかと思うくらい鼓膜が揺さ振られているのが分かる。僕は落ち着きを装いきれないまま、震えた手で病室のドアをノックした。
返事が無い…
いつもなら「はいっ、ちょっと待って...今ちょっと、眉毛だけ描いちゃうからぁ」と返って来るはずの無邪気な声が、今日は返って来る気配が無い…
もう一度ノックする…それでも返って来ない。
僕の中で嫌な記憶がフラッシュバックした...
脂汗がじっとりと脇や背中を濡らす…呼吸が乱れる...口の中が渇く...僕は躊躇しながらも、汗ばんだその手でドアノブをゆっくりと回した。
小さな窓から差し込んだ朝日の先で、彼女は白雪姫とは程遠い様な、だらしのない寝顔で、涎を垂らしながらスヤスヤと眠っていた。あの掛け布団から飛び出した脚に、僕は何度蹴り飛ばされた事だろう...寝相の悪さは相変わらずだ。
枕を抱き締めながら背中を丸め、目も鼻も真っ赤にして、泣き疲れて眠った彼女は...赤ちゃんみたいと言うよりも…母親の子宮の中で誕生を待つ胎児の様に見えた。そんな彼女を眺めながら、僕はソファーにずっしりと沈んで胸を撫で下ろした。
あぁ、そうだ…落ち着いたところで、軽く顔を洗おう。彼女を起こさないように気を付けながら、静かにすっくりと立ち上がり、ベッドの横にある小さな洗面台で顔を洗った。
そして、皺くちゃなままポケットに突っ込んであったハンカチを取り出して顔を拭きながら、如何にもおじさんらしい声を発してしまった…彼女が起きていたらきっと怒られただろう。
緊張の緩和だっただろうか?落語界の大名人…桂枝雀さんの言う通りだ…鏡に映っている僕は、なんだか自然と笑っていた。
いつから笑っていなかったんだろう?…久しぶりに笑ったような、そんな感覚に浸りながら…僕はもう一度ソファーに沈み直して、彼女の緩み切った寝顔を眺めながら安堵していた。
僕はそんな束の間の休息に、何もかも忘れてしまえたら良いと...このまま時間が止まってしまえば良いと...そんな碌でもない事を考えていた。
しかし次の瞬間には、彼女がパッチリと目を見開いて、眼前の僕に「お腹空いた」と欠伸混じりの眠そうな声で言った。
目覚めて第一声がこれだ…人の心配なんてどこ吹く風である。猫が顔を洗う様にグリグリと目の辺りを擦りながら、彼女はまた直ぐに布団の中へと顔を潜り込ませた。
「私眉毛ある?」
厚手の重たい羽毛布団に吸収されて籠った声は、彼女の恥ずかしさをより強調している様に聞こえた。
「あるよ...昨日もどうせ化粧落とさないで寝たんでしょ?」
「ちょっと...覚えてない...」
「眉毛もちゃんとある事だし...看護婦さんに言って、ご飯を用意して貰おう」
「うん」
看護婦さんの話がまるで嘘であったかの様に、彼女は調子が良さそうだ...いっぱい泣いて、眠った後だからスッキリしているのだろうか?
躁鬱病は、躁状態と鬱状態の明暗がくっきりと別れている。それはもう別人と言っても相違ない程…表情から声色…身に纏う空気感まで違って見える。
僕にまで妙に口調が丁寧になったかと思うと、決まって何かに取り憑かれたように、彼女はこの世界のはじまりについて語り出す。
「思い出したのです…やっと思い出しました。
そう、私は始め…小さな種…光の粒だったのです。
真っ暗な宇宙に浮かぶちっぽけな一粒の灯火だった私には、唯一意識があり、幾つかの感情...感覚がございました。
それは孤独感に無力感、拘束感に不足感、退屈感に恐怖感、不安感に疑問感…そして、不在感です。
これら九つの欠如した感覚から、この世界が産み落とされたのです。
それが起源なのです…それが原因なのです...
物語の全ては欠如から始まるのです」
続く
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