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第9回「思考する織り物」(矢萩喜従郎 『平面 空間 身体』 より)

このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第8回では、レスター・エンブリーの「使える現象学」を紹介しました。

さて、第9回でご紹介し、書き留めておきたいのは、「思考する織り物」です。

「思考する織り物」

この言葉は、グラフィック、サイン、写真、アート、建築、評論、出版を手がける領域横断型のデザイナー矢萩喜従郎氏が、著書『平面 空間 身体』のなかで述べている言葉です。

本書は、複数の領域が混ざりあう「溶解する領域」に読者を誘う、体験の書です。矢萩氏の問題意識は明確です。

絵画やグラフィックデザインといった二次元の平面、それにプロダクトデザイン、彫刻、家具といった三次元の立体、あるいはインテリア、建築等の三次元の空間について、学んでいたり仕事に従事している人達に注目してみると、平面を専門にしている人は平面、立体を専門にしている人は立体、あるいは空間を専門にしている人は空間だけにと、想像以上に専門化していると思われる。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』pp.12-13

矢萩氏自身、様々な分野に好奇心を持ち、知識を得るだけでなく、その領域の当事者として活躍しているデザイナーです。彼は、次のように言います。

専門をあまりに決め過ぎると、そのことに自らが制約を受け、他の分野への関心を持てなくなるだけでなく、人それぞれが本来持っている可能性さえも引き出せなくなる危険性が生まれるのである。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』p.13
この様な背景を踏まえ、自分が専門としていることはもちろんのこと、専門分野以外への関心をもっと引き出し、出来ることなら人それぞれが与えられた可能性を閉ざさずに、領域の概念そのものも溶解し、創作の場を広げる人が出てくれば、という思いに依って本書は書かれている。そして、文学、哲学、科学、工学、医学、生理学、心理学、言語学、比較文化学、社会学、法学、政治経済学等、それに芸術の領域にも好奇心を示し、他の分野からの大切な活力を吸収していくことを願っているのである。その様な他からの活力が得られれば必ずや創作活動にも重要な契機が与えられると思うからだ。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』p.13

本書は、著者自身が複数の領域が交差する場で発見した分析や洞察を織物のように紡ぎあわせた「思考する織り物」になっています。

著者にとって本書をつくる過程は、まさに自身の経験の束を拾い集め、思考を織りなすプロセスであり、「自分を深く知る旅」でした。

それは、「思考する織り物」を織り続けることによって紡ぎだされた 学習と創造のドキュメンテーション だといえるでしょう。


体験装置のデザインという視点

読者は、この「思考する織り物」を通して、著者がたどった学習と創造のプロセスを追体験することができます。

本書は紛れもなくわたし自身の私的な経験を通して書かれた「思考する織り物」であるから、誰もがわたしと同じ様な経験や驚きを得られるとは思えない。けれどもわたしの契機がいかに私的な経験に依るもので、全てに通底するとは言えないまでも、少なくとも私的な好奇心の有り様には、個人の領域に留まることから大きな広がりをみせ、多くの人に伝播していく要素が秘められていると感じるのである。「ああそうなのか」と、今まで繋がる筈もないと思っていた様々な因子を収束させ、太い束にして、自分が考えていたことに意を強くする人が出るならばうれしい限りである。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』p.15

こうした想いから、矢萩氏は自身のたどった旅路を他者がたどり直せるように配慮しています。つまり、著者の思考が、領域を横断する好奇心によって進化していったプロセスを、単に説明するだけでなく、追体験できる装置として再構築しているのです。

これは、単なる自己省察ではありません。

自己省察によって抽出した学習と創造の相互作用を、他者が再現しうる「物語」、あるいは「楽譜」のような装置としてつくりなおす活動だと言えるでしょう。

たとえば、自分が理解したことを他者に説明するとき、自分がどのような文脈で、どのような既有知識がある状態で、どのような新しい出会いや発見に導かれ、「わかった!」と腑に落ちたのか。こういったことを反省し、同じように「わかった!」と手を打ってもらえるような体験装置をつくる。そんなイメージです。

わたしは、これを「体験装置のデザイン」と呼んでいます。

第5回で紹介した安部公房の考え方「まだ意味に到達していないある種の原型を提供する」や「言葉にならない感覚の投影体を見つける」というアプローチが、体験装置をつくるお手本のようなものだと思っています。

そして、矢萩氏の著書『平面 空間 身体』も「体験装置のデザイン」の見事なお手本です。矢萩氏は、次のように書いています。

論稿の中に敢えてエッセイを各所に入れた形式にしたことには理由がある。わたし自身に様々な出会いがあった時の、状況、雰囲気、空気を伝え、そしてその時、どの様に驚いたかという、わたしの息づかいを示すだけでなく、時を経てそれらを問題にして、わたしがどの様に考えていったかに触れる必要があると感じたからだ。つまり、その経緯の中に重要なヒントがあると受け止めてくれる人もいるのではと思い、その為に省くべきでないと判断したのである。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』p.14

こうして、著者の生き生きとした思考の軌跡がエッセイとして盛り込まれました。本書は、この「体験装置のデザイン」が素晴らしいがゆえに、著者の好奇心の有り様がよく伝わり、インスピレーションをもたらします。

わたし自身、矢萩氏の思考の軌跡が記された活字を目で追いかけ、図を参照し、時に自ら再現し、身体で共鳴し、驚きとともに視野が広がった体験をよく覚えています。

たとえば、次の文章は 18歳のわたしに衝撃を与え、身体と環境がおりなす有機的なつながりを強烈に実感させてくれました。

人間、モビールそのものの存在
 人は思いがけず、人生を左右する程の言葉に出会うことがある。学生時代、いつもの様に女性のヌードモデルを前にして、彫刻を教わっていた時のことだった。彫刻家の佐藤忠良は、初めに右肩を左肩より拳一つぐらい下げただけでも、身体全体がそれに呼応することを、女性モデルに実際に右肩を下げてもらいながら指摘した。けれどもその説明の直後、衝撃的とも言える言葉が佐藤忠良の口を衝いて出たのである。女性の性器の位置もちょっとした身体の動きに呼応し変化していると…….。その話を説明する為に急に黒板の前に進み、姿勢がそれぞれ違っている裸婦のデッサンを見事に描き、一本の線で表現された女性の性器を、デッサンの中にそれぞれ違った方向に描いたのである。
 図解まで加えたその説明を聞かされて、わたしは漫然と聞いていられなくなっていた。おそらく佐藤忠良は、身体の一部が僅かでも動けば、それに全身が呼応し、女性の性器さえ例に漏れないことを説明したかったのだろう。女性の性器に言及したのは、身体の微妙な動きを感じ取れないでいた学生達へのカンフル剤であったことは間違いない。
ーー矢萩喜従郎『平面 空間 身体』pp.18-19

この文章は、とても強い再現性を持っているように感じます。まるで、わたし自身もその場に居合わせたかのような錯覚を覚えたほどでした。

矢萩氏は、この経験によって、微細な身体の動きに気づくようになったと語っています。その後、ヨーロッパ旅行でシャルトル大聖堂を訪れると、天井が高いせいか、「空間の中で自分の身体が上下に分離されていく」ように感じます。この「身体が天から引き上げられる感覚」について考えていると、同様に天から引き上げられて成り立つ造形であるモビールが頭に浮かんできます。こうして矢萩氏は、空気の微細な動きに連動して動くモビールと人間とのアナロジーを発見し、「重力と向き合っている様々な事象や風景に、より眼差しを注ぎたい」と思ったといいます。

こうやって要約すると、矢萩氏の筆致のリアリティが失われてしまい残念です。しかしながら、著者の生き生きとした思考の軌跡がどのように描かれているのか、多少なりともお伝えできたのではないかと思います。


思考する織り物」=自分を深く知る旅」と「体験装置のデザインの重ね合わせ

矢萩氏の「思考する織り物」は、「自分を深く知る旅」そのものです。自分なりの理解と接続して考えると、「学習と創造のドキュメンテーション」と表現することができます。

第8回「使える現象学」の内容と深く結びついているのですが、自分が体験したことがらについての確信を成立させる構造を「現実の再制作(つくることで学ぶ)」を通して発見するアプローチだと言えるでしょう。

このアプローチは、文献研究にとどまらず、ことがらそのものを探究することで、「私をつくりなおす」「関係をつくりなおす」「現実をつくりなおす」といったあり方だと捉えています。

自分を深く知る旅は、決して独我論ではありません。自分と他者の関係によって「私」が照らしだされるのであり、自己の身体を触媒に現実世界とのフィジカルな関係を考えることだと思うからです。

陶芸家の河井寛次郎氏が、似たようなことを述べています。

座右の銘としては、「自分は何か」。常に自分自身ととっくんでいます。これは、利己主義という意味ではありません。自己を通じて、しかも自他のない世界に至りたいと願います。
ーー河井寛次郎『私の哲学(続)』

わたし自身は、ことがらを自分なりに理解するために「現実の再制作(つくることで学ぶ)」を実行しています。自分がどれだけ理解しているのかは、絵を描いたり、図にしたり、なんらかのアウトプットで一目瞭然となります。アウトプットを重ねるうちに、納得できる図が描け、重要な概念を特定できます。身体で理解できるまで試行錯誤するのです。

この時、自分の理解を一気に推し進めてくれるような体験があったなら、それを再現しうる「体験装置のデザイン」を考えてみる。体験の本質をかたちにする。そうすると、体験装置がうまく機能するかどうかを自分で検証することになる。その過程で、またまた「自分を深く知る旅」へと誘われます。

このように、「自分を深く知る旅」と「体験装置のデザイン」という視点が重なり合い、ひとりよがりの内容が削ぎ落とされていく過程が、思考する織り物」を織り続ける行為なのだろうと感じます。

わたしは、矢萩氏が「思考する織り物」を織りつづける行為と表現していることを、ひとつの学問として捉え、「Drawing Poetry(学習と創造のプロセスドキュメンテーション)」というアプローチで実践しているのだと思い至りました。

大学生のときに出会った『平面 空間 身体』という織り物が、自分自身のなかに深く刻み込まれていたという事実を、あらためて実感しました。

全体を通して、だいぶ観念的になってしまいました。自分自身の反省の念を、河井寛次郎氏の文章に助けを求めて締めくくりたいと考えています。

 霊魂不滅ということを、実感したことはありません。疑問のまま、今日に至っています。しかし、生命というものは始めも終わりもないものだという気がします。このことは実感を以って知らされました。(中略)
 そういう無限の生命の自覚が、自分にとってはまだ観念の上だけのことだ、というところに、私の問題がまだ残っています。今、自分を試験台として、そのことをもっと考えてみようとしています
ーー河井寛次郎『私の哲学(続)』


おわりに

今回は、矢萩喜従郎氏の『思考する織り物』をとりあげ、「自分を深く知る旅」と「体験装置のデザイン」という視点が重なり合い、ひとりよがりの内容が削ぎ落とされていく過程が、思考する織り物」を織り続ける行為だと考えてきました。この行為は、まさにデザインであり、制作そのものの本質に肉薄しているように感じられます。しかしながら、まだまだそれを捉えることはできていません。河井寛次郎氏の言葉にあるように、「自分を試験台として、そのことをもっと考えて」みなければならないでしょう。

今後も引き続き、わたしにとって魅力的な、「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。

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