第7回「碁は調和の姿」(呉清源)
このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第6回では寺山修司の「必然ということばは社会的で、偶然ということばは個人的である」を紹介しました。
さて、第7回でご紹介し、書き留めておきたいのはこちらです。
「碁は調和の姿」
これは、昭和囲碁界最強の打ち手といわれた中国出身の囲碁棋士・呉清源先生のことばです(わたしも碁を打つので先生呼称になりました)。
「碁は調和の姿だと、私は考えます。碁は、争いや勝負と言うよりも、調和だと思います。一石一石がつり合っていて、最後に一局の碁が、調和したものとして打ち立てられるわけです」
ーー呉清源(水口藤雄『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』より)
1930年頃、呉清源先生は木谷實先生とともに、隅ではなく中央、手堅さよりもスピードを重視する「新布石法」を提案し、囲碁の歴史に新しい考え方を持ち込みました。晩年はさらに「宇宙・六合・調和」をテーマに「21世紀の打ち方」を提唱しました。隅や中央のどちらといったことではなく、盤面全体の調和を目指した打ち方です。
江崎誠致は最晩年の著書『呉清源』において、呉清源と調和の精神を言葉たくみに表現している。
「『碁は争いや勝負というより調和である』『碁は勝負というより自然の現象である』呉清源はさり気なく語っているが、これまでこんなことを唱えたものがどこにいたろうか。少し考えてみればわかることだが、誰一人いなかったのである。呉清源が、囲碁史に突出する業績をおさめたことと、調和の思想は無縁ではないはずである。呉清源は、その理想とする調和を求め、はるかな時空の世界に身をゆだねることで、より調和に近づくすべを会得した希有の棋士であったと言うことができるだろう」
ーー水口藤雄(『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』より)
囲碁のことを少々
さて、囲碁は2人で対戦するボードゲームです。
縦横19本の線が交差するマス目が、ゲームの舞台です。線と線が交差する点に、石を置くことができます。交互に盤上に石を打ちあい、陣地を分かちあいます。最終的に大きな陣地をつくった方が勝者です。
石を並べて陣地を囲むことを考えると、中央に石を並べるより、辺や四隅に石を並べるほうが少ない手数で囲うことができます。そのため、もっとも陣地をつくりやすい四隅を重視する打ち方が盛んに研究されてきました。
呉清源先生は、その歴史に挑戦するように、盤の隅ではなく中央、手堅さよりもスピードを重視した「新布石法」を実践したのです。さらにその後、隅だけでも中央だけでもなく、盤面全体の調和を探求しました。
「碁は調和ですから、無理はききません。一つ一つの石は、取られたり、死んだりするものではないはずなのに、無理があるから、取られたり、死んだりするのです。(略)碁の勝負は、普通の勝負と、ちょっとちがうと、私は思います。そこには人為的なものが少なく、ほとんど自然の現象と言うべきで、自然の現象を、ただ勝負と名づけただけではないでしょうか」
ーー呉清源(水口藤雄『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』より)
先生は、当時の中国と日本の親善の架け橋になるとともに、日本において江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統に学び、かつ挑戦し、時代とともに変化する囲碁の姿を探求し続ける生涯を送りました。
数千年の昔から碁があり、二一世紀はもちろんのこと三〇世紀も四〇世紀も、多分、囲碁は存在し続けるでしょう。そして、この囲碁が、五千年くらい考えたところで、とても全体の十分の一もわかっていないところが、そら恐ろしいではありませんか。勉強すればするほどわからないことが出てきます。何とかわかろうとして、私、呉清源なども毎日毎日、碁盤に向かいます。盤に向かっている限り、毎日新しい発見があり、楽しくて仕方がありません。
ーー呉清源『二十一世紀の打ち方』より
囲碁棋士の依田紀基氏は、かの囲碁AI(アルファ碁 マスター)の打ちぶりに、呉清源先生の打ちぶりを重ねあわせています。
現在、プロをも打ち倒す力を得た囲碁AI「アルファ碁」は、これまで人間が想像しなかった新しい手を繰り出し、囲碁研究の歴史に新しい視点を持ち込んでいます。昭和の時代に「新布石」や「21世紀の打ち方」を実践した呉清源先生の活躍は、現代のアルファ碁のような衝撃を囲碁界にもたらしたのかもしれません。
調和とは何か?
ところで、「調和」とは何なのでしょうか。デジタル大辞泉によれば、「全体がほどよくつりあって、矛盾や衝突などがなく、まとまっていること。また、そのつりあい」と記載されています。
わたしは、調和は静的なものではなく、絶えず均衡をとり続ける動的なものだと想像しています。そのため、「矛盾や衝突などがない」という記述に異和を感じました。むしろ、矛盾や衝突をバランスし続けることが、調和なのではないかと思うのです。
碁盤の上に石を置いたとき、石の重みと同じだけの力を、碁盤が押し返している。あたかも静止しているように見えるけれど、実際には、力と力がぶつかり合っている。
あるいは、わたしたちの身体は毎日同じように見えるけれど、その実、食べたもので更新され続けている。物質の観点から見ると、違う身体に生まれ変わっている。
またあるいは、1910年代、女性がパンツを履くことができない時代の価値観に異和を感じたココ・シャネルは、女性のパンツスタイルを広めてタブーをとりさった。人間の身体は変わらなくても価値観が生まれ変わっている。
こういうものが「調和の姿」だと思うのです。
この認識は、わたし自身が寝食を忘れて囲碁にのめり込み、肌で感じた経験に由来しています。そして、囲碁とデザインのアナロジーを感じる理由はここにあります。
碁というものは、一つ一つの石を重ねてゆくのですが、その一つ一つの石には、働きというか、力というか、そういうものが、どこに石が置かれても、あるのですね。その一つ一つの石の力が、完全な調和を保つと、完全に綜合的な力を持つわけです。かりに三つの石があるとしても、その三つの力を合わせた力は、十五にもなれば十にもなる。いくつにでもなる。ですから私は、自分の石の一つ一つが、最高の働きと調和とを持つようにつとめるわけです。
ーー呉清源(水口藤雄『真髄は調和にあり:呉清源 碁の宇宙』より)
例えば、グラフィックデザインにおいても、平面にレイアウトする一つ一つの要素には、はたらきがあります。周囲との関係によって、はたらきが生かされもすれば、殺されもする。たとえ平面で見たときに調和していても、現実空間のなかにおけば関係が変化し、はたらきが失われることもあります。
だから、たとえ平面的なデザインであっても、利用される空間において部品同士が最高のはたらきと調和を持つようにつとめる。
こういった感覚が、囲碁とデザインに共通しています。
ここでわたしがイメージする「調和の姿」とは、部分同士のはたらきが最大化されて、動的で緊密な関係がある状態。一見すると静かに見えるけれど、じつは個性と個性が激しくぶつかり合っているような状態です。
デザインにおける「調和の姿」
作曲家の武満徹は、次のように書きました。
個性の共存と謂うことは、論理の上では成立しない矛盾である。私は共同の作業を試みることで、その矛盾を克服しようとするものではない。反って、激しい矛盾を体験することによって、真の存在を知ろうとするのである。二つの異なるものを調和させるように努めることは、生きることの訓練ではないか。その矛盾は運動をうみ、そこには空気が通う。
ーー武満徹(『音、沈黙と測りあえるほどに』 より)
先程までは、盤上の石と石の調和や、グラフィックデザインの部品同士の調和について考えてみたのですが、武満徹は個性と個性の調和として語っています。確かに、部品よりも、個性と表現すべきです。
ところで、調和というものは、ミクロからマクロへ、分子から宇宙まで、幅広いスケールのなかで語られます。イームズ夫妻は、「Powers of Ten」という一本の動画のなかで、このスケールの変化を見事に表現しています。
日常において、わたしたちが感じとれる領域は限られています。みたり触れたり聞いたりする身体(=五感)には、限界があります。
デザインの世界では、人間の身体を基準に、人間中心設計を行うのが基本になっています。建築家のル・コルビジェは、人体の寸法と黄金比を組み合わせて、建造物をデザインする基準「モデュロール」をつくりました(余談ですが、北大の建築都市スタジオ内に設置されたトイレのピクトグラムがモデュロールを模していることを発見したとき、小さな感動を覚えました)。
近代デザインにおいては、身体と物質、身体と環境を調和させるために、たくさんの方法が考案され実践されてきたと言えます。
そして現代、デザインは個性と個性の調和の大切さに焦点をあわせはじめているようです。
わたし自身がこの変化を感じたのは、2010年頃でした。たとえば、西澤明洋氏の著書『ブランドをデザインする!(2011)』では、デザイナーがクライアントとワークショップをおこない、デザインの共通言語やビジョンを一緒につくりあげるプロセスが示されていました。
ブランディングデザインは、モノだけでなくコトをデザインするプロセスに強く関わります。だからこそ、クライアントと共同して創りあげるプロセスが重要です。同時に、企業に属するデザイナーがすべきことは、自社のブランディングデザインを経営陣とともに推進することではないだろうか、と強く感じたことを覚えています。
これからのデザイナーは、デザインを個人の道具とするのではなく、組織の道具として開発する役割を担うようになるのでしょう。というより、わたしがそうなりたいと考えています。
というのも、従来のデザインの専門家とクライアントの関係(デザイナーがヒアリングをもとにアイディアを提案し、クライアントが採用するという構図)では、真の意味での「調和」が起こらない実感があるからです。
ヒアリングには限界があります。
デザイナーはクライアントの専門分野については素人です。素人の強みを生かして客観的な視点を提供できるとしても、クライアントのビジョンや問題意識を当人たちほど理解できていません。デザインに必要な素材は、デザイナーのビジョンではなく、クライアントのビジョンです。だからこそ、デザイナーやコピーライターは、クライアントから「お土産ばなし」を引き出そうとします。
デザイナーの立場で考えたとき、当事者の思想を具現化するためには、表面的なヒアリングだけでは捉えられないことが多すぎるのです。また、ヒアリングした事柄を解釈する場面で、デザイナー自身が持つ思い込みや認識をひとりで乗り越えることは難しいものです。
そして何より、ヒアリングをする際の共通言語や前提が揃っていないことがしばしばあります。ビジョンを具現化するための共通言語がないことがほとんどなので、話し合うための土台作りがまず必要になります。それぞれの解釈をぶつけ合ってビジョンづくりをともに行えば、同じ方角を向いて思想を具現化でき、手戻りも少なくなります。
土台ができたなら、きっとヒアリングもうまく進むでしょう。オニツカタイガーの広告コピーのように(第2回「あたくしはお取り次ぐするだけ」)。
デザイナーはクライアントと一緒に共通の目的を描き、共通言語をつくる過程に力を注ぐべきだと感じます。それぞれの思い込みやしがらみを壊し、作り直す過程に力を注ぐべきだと感じます。
二つの異なるものを調和させるように努めることは、生きることの訓練ではないか。その矛盾は運動をうみ、そこには空気が通う。
ーー武満徹(『音、沈黙と測りあえるほどに』 より)
碁は、白番と黒番を一人二役で打つこともできます。しかし、相手がいなければ面白くありません。予想外の変化が生まれにくいからです。
調和は調和でも、予定調和には動きがありません。発展性に乏しいでしょう。
対話による動的な揺らぎのなかで、異質なもの同士の関係に生まれる矛盾を調停するプロセスにこそ、深奥幽玄の調和が宿るに違いありません。
個人的な見解ですが、こうしたプロセスを建築デザインのプロセスに組み込んだのが、クリストファー・アレグザンダーです。彼は、建築デザインの実践のなかで見出した黄金率やノウハウをパターンとして言語化し整理する作業をライフワークにしていました。蓄積したパターンは、デザインについて語るための共通言語「パターン・ランゲージ」となります。
アレグザンダーのデザインプロセスの素晴らしいところは、クライアントが求める建築物の姿を、クライアント自身が発見するプロセスをサポートする道具として、共通言語「パターン・ランゲージ」を活用する点です。
このデザインプロセスは、デザインにおける「調和の姿」を象徴しているように感じられます。
そして、デザインと学習科学が重なりあう領域も、「教育者と学習者がともに学び合うプロセス」においてなのです。
同じように、「デザイナーとクライアントがともに学びあうプロセス」を研究・実践することで、デザインにおける調和の姿を探求していきたいと感じます。
呉清源先生の「碁は調和の姿」という言葉を通して、個人的に目指しているデザインの輪郭がおぼろげながら見えてきたような感覚を覚えます。
人間とAI
ここから話題が変わります。呉清源先生の言葉について考えるなかで、アルファ碁の仕組みに興味が湧いてきたのです。
わたしが囲碁にのめり込んでいたゼロ年代は、パソコンの囲碁ゲームがようやくアマチュア初段になったくらいでした。当時は、囲碁ゲームと打っても勉強にならない。人間より強くなるのはどれだけ先だろうか? と思っていました。ところが、この10年で機械学習にブレイクスルーがあり、ついにアルファ碁がプロ棋士を打ち破りました。
アルファ碁は、いったいどのような仕組みになっているのでしょうか。「人間にとっての調和と、アルファ碁にとっての調和の違いとは?」という問いを頭の片隅に置きながら、調べはじめました。
まず面白いと感じたのは、アルファ碁が、画像解析の手法で次の一手を選び出していることです。
盤上の局面をひとつの画像として処理するということは、次の一手を「かたちの調和」から導き出しているのかもしれません。人間も同じように考えているところがあると感じています。
もうひとつ興味を惹かれたのは、「教師なし学習」でディープラーニングしたアルファ碁ゼロが、「教師付き学習」でディープラーニングしたアルファ碁マスターよりも圧倒的に強くなったという事実です。
このことは、人間による囲碁の学習史に文化的な制約があることを示しているかもしれません。また、教師という存在のあり方、人間の学習のあり方に何らかの示唆を与えてくれる可能性があります。
ただし、「教師なし学習」のプログラム自体に先人の知恵が活用されているほか、人間が知恵を絞って学習方法をプログラムして実行している以上、完全な意味でAIが自力で学習したわけではないようですが。
詳しく検討するために、『最強囲碁AI アルファ碁 解体新書 増補改訂版』を読みはじめました。アルファ碁の機械学習の仕組みを学び、「調和」「学習」「創造」という3つのキーワードを自分なりにつなぎ合わせて考えてみます。気が向いたら、記事にできればと思います。
おわりに
今回は、「碁は調和の姿」という呉清源先生の言葉からはじまり、現代デザインの「調和の姿」を検討し、個人的に目指しているデザインの輪郭を感じとることができました。そして、アルファ碁の機械学習について学ぶことで人間にとっての調和と機械にとっての調和について考えたい、という新しい目的を発見できました。
今後も引き続き、わたしにとって魅力的な、「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。