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#08「マンガのなかのわたし」(第3話:アナロジー構造に聞いてみよう)

WONDER ORDER(あるいはORDER WONDER)では、マンガ・リフレクションを通して、なぜか気になる対象(ワンダー:不思議)について考え、そこにある本質(オーダー:秩序)を少しでも理解しようと思索を進めていきます。どこに向かうかわからない漫(そぞ)ろな足取りになりがちですが、The Sense of Wow!der の心持ちで、学習と創造のプロセスを楽しみ、記録していきます。

第8回は、第7回に引き続き「マンガのなかのわたし」をテーマに、自伝コミックスやエッセイマンガのなかの「わたし」について考えます。今回は、安部公房の小説「手」をマンガに引用し、その論理構造をそのままに、マンガのなかの「わたし」について考えていきました。なので、「アナロジー構造に聞いてみる」ということになりました。一緒に面白がっていただけたら、嬉しいです。

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お読みいただき、ありがとうございます。

第3話では、第2話までの「自伝契約」を主たる概念として考えていくプロセスをいったんフェードアウトし、別角度から考えていく回路をつくりたいと思っていました。

そこで、次の3つの展開の方向性を検討していました(メモより)。

案1: 「自己を映す鏡」
建築家、クリストファー・アレグザンダーの「自己を映す鏡」を参考にキャラやキャラクターに迫るのもひとつの方法だと思った。伊藤剛氏がいう「プロト・キャラクター性」を考えるのに、アレグザンダーの思索や方法がつながりそうだという直観。

案2: 「自伝契約」を破ろうとする作者の身体像
ルジュンヌは言語で表現される自伝文学の「自伝契約」について考えた。つまり、コミックスのそれではない。だが、ルジュンヌ自身が後年、サルトルなどに関して、他のメディア(映像など)にも思考を広げていったのは興味深い。ここから、言語からビジュアル言語も含めた視点へと拡張し、海外での自伝コミックスの潮流、そこで繰り広げられている議論をテーマにしていくのは自然。また、日本のエッセイ漫画の文脈との対比から、キャラやキャラクターの議論へと進むこともできる。そもそもこのテーマは、雑賀氏の論文に触発されたもの。

案3: 「オートポイエーシス」に着目した「マンガのなかのわたし」考察(→自己産出システムとしてのマンガ表現空間、的な?)
マンガを描くことで学ぶ」実践を進めるなかで、「マンガ表現空間」(伊藤剛氏が提起したもののような?)があるとすれば、それは一種の「学習空間」なのではないかと考えるようになった(そもそも、そのように感じていたのだと思う)。つまり、マンガを描くというとき、マンガという表現が持つ制約や方向づけが、作者や読者らの自己産出を促進させる。そういった観点があると思う。そのとき、作者はどのような状態にあり、マンガ表現空間とどのような関係にあるのか? そして、作者に自己産出を、生成を促す仕組みは、なんなのだろうか? ちなみに、ルジュンヌが「自伝空間」という言葉づかいをしているのも参考になる。


研究として最もワクワクするのは案3で、個人的に重要な発見もできたと思いつつ、ネーム書き出しが2日ほど停滞しました。

この間は、「概念」に縛られすぎていたのかもしれません。感情に任せて描くということも必要で、むしろその過程で、概念が導入させたりされなかったりするのがよいのでしょう。

ネームの停滞から抜け出したきっかけは、大江健三郎やカート・ヴォガネットらの本をみながら「書くこと」それ自体を問うのもありだなと考えはじめたことです。モヤモヤは、自伝契約を含めたより大きな問い、「書く(描く)とは何か」という根源的な問いに向かっていることに気づき、また動き出せました。

2007年頃の文庫本ノートを取り出してみてみると、安部公房の「手」からエピソードを抜き出してありました。平和の鳩の像が、「おれを支えてくれる者の行為によってのみ、おれは存在しうるのだ」というセリフ。なるほど、いま描いているマンガのテーマ「マンガのなかのわたし」とかなり似た状況です。2007年と変わらない琴線に「わたし」をみる私。

そして、ブレイクスルーがありました。なるほど、アナロジーをみたことそれ自体をマンガ(学び)の素材にすればいいのか!

そこで、小説をマンガに引用する実験も開始するとともに、あえて小説の構造をそのまま使い、平和の鳩の像である「おれ」を、マンガのなかのわたし=「ぼく」に置き換えてみることにしました。

たまたま発見したアナロジーを利用して、自分の知りたい対象について考えてみること。これも、学びを駆動する装置の一種だと感じます。

今回はネームを描くのに時間を要しましたが、結果として、自分的にしっくりくるビジュアル的な隠喩が見つかりました。

つまり、「マンガのなかのわたし」は、「アバター」より「能面」や「エッシャー的な相互反映性」として捉えたほうがしっくりくる、という実感を導き出すことができました。「マンガのなかのわたし」を、別角度から考えるきっかけを得られたかもしれない。これが、マンガ・リフレクションを実行したひとつの成果のように感じました。

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