第3回「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。」(勅使河原蒼風『花伝書』より)
このマガジン「デザインという営みにコピーを与えてみる」では、デザインにコピーを与えるという目標に向かって「デザインを語ることば」を集めています。第2回では「あたくしはお取り次ぐするだけ」という八代目文楽の言葉を紹介しました。
さて、第3回でご紹介し、書き留めておきたいのはこちらです。
「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。」
いけばな草月流の初代家元・勅使河原蒼風の言葉です。前後の文章があってこそ、このひと言が際立って感じられます。
花は美しいけれど、いけばなが美しいとはかぎらない。花は、いけたら、花でなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。それだから、おもしろいし、むずかしいのだ。自然にいけようと、不自然にいけようと、超自然にいけようと、花はいけたら、人になるのだ。花があるから、いけばなができるのだが、人がなければ、いけばなはできない。ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。ウソは創造なのだ。創造のないいけばなはつまらない。
ーー勅使河原蒼風『花伝書』
蒼風は形式主義的ないけばなの伝統に疑問を持ち、いけばなを、花を表現する芸術ではなく、人を表現する芸術として捉え直しました。
本題に入る前に、蒼風の思想ともいえる言葉「いけたら、花は、人になるのだ」をとりあげます。この言葉に立体感を与えるために、『勅使河原蒼風 瞬刻の美』から、蒼風の言葉をいくつか抜き出します。
ある人の花を見ていて、思わず
「もっと大空を相手にいけたらどうでしょう、大空を考えていけるんですね」と言った。
なんだか、その人の心があんまりいじけているように思えて、
ほんとうにそこの目の前だけに苦労しすぎているのを感じたので、
なんとか言ってあげたいと思って、そんなことを言ったのである。
人間がこせついて、気が弱くなった時に見るために大空があるのだと思う。
このエピソードからは、「いけたら、花は、人になるのだ」ということがよく伝わります。それにしても、「大空を相手にいける」とは、素敵な言葉をかけるものだと感銘を受けます。
蒼風は、花をいけるという行為を、次のように語っています。
いけるというのは、
字に書いてみれば造形(いけ)る、
変形(いけ)る、といったことなのだ。
いかに、造形たか、
いかに、変形たか、
ということが問題なので、
ここに急所といったようなものがある。
言葉を造型(いけ)れば歌になる。
詩にもなる。
俳句にもなる。
長く綴れば小説にもなる。
絵具を造型たものが絵である。
ピアノでも、弾いたらもうピアノではない。
それは音楽だ。
造型ればもう元のものではなくなるし、
また人間何でも造型られる。
何でも自由に造型よーー
「なんでもいけられる」というのは
「どんなものでも人間の心を加えて
変化させることができる」という意味なのである。
蒼風の視点は、いけばなを超えて、人が何かを生み出すこと自体に向けられているように思えます。
空に星があるように、
野に花が咲くように、
人に思い出があるように、
わたしの彫刻には穴をあける。
穴をあけずにはいられないから
そうするのだが、
それがわたしの星であり、
花であるのだ。
人が何かを生み出すということは、その人自身を生み出すプロセスです。彫刻に穴をあけずにはいられない。これが蒼風その人の個性であり、蒼風そのものなのだという迫力が伝わってきます。
わたしは、蒼風の思想の根本にある「いけたら、花は、人になるのだ」という言葉から、いけばなのような芸術活動だけでなく、日常的な言葉選びやメモ書きにおいても、何かを生み出す行為には必ず心が作用しており、その心が表現されるということを学びました。
デザイン、あるいは抽象表現との相似
さて、いよいよ本題に入りたいと思います。「いけたら、花は、人になるのだ」という蒼風の思想を踏まえて「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ」を見ていくと、とても味わい深いのです。冒頭の文章を再び掲示します。
花は美しいけれど、いけばなが美しいとはかぎらない。花は、いけたら、花でなくなるのだ。いけたら、花は、人になるのだ。それだから、おもしろいし、むずかしいのだ。自然にいけようと、不自然にいけようと、超自然にいけようと、花はいけたら、人になるのだ。花があるから、いけばなができるのだが、人がなければ、いけばなはできない。ウソをつけよ、ウソがまことなのだ。ウソは創造なのだ。創造のないいけばなはつまらない。
ーー勅使河原蒼風『花伝書』
この「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ」という言葉は、デザインにおいて表現を洗練させる場面で意識する感覚とよく似ています。長文ですが、蒼風一流の解説を引用します。
利休がいけばなに残した言葉で、
相当知れわたっているものの一つに、
「花は野にあるように」というのがある。
ズバリ一言で
いけばなの心を述べたものと言えるのだが、
あまりにも抽象的なこの言い方は、
よほど解釈を上手にしないと、
受け取り方を見当ちがいの
妙なものにしてしまう。
* * *
花をいけるのならば
”野にあるように” そのままいける、
すなわち
鋏を入れたり枝ぶりを曲げたり
葉の数を減らしたりしないで、
そのままにしておくというのだが、
わたしに言わせれば、これでは決して
「野にあるように」ではないのである。
いけばなのことを
ほんとに知らない人のカン違いが、
とかくこうなりやすい。
* * *
花を「野にあるように」美しく
いけばなにするのには、
相当鋏を入れなければならない、
枝ぶりは曲げなくてはならない、
葉の数も減らさなければできないのである。
そうして
「野にあるように」美しくつくるのが
生花であるーー
わたしに言わせれば
こうなるのがほんとうであって、
おそらく利休も
このことをよく知っていたに違いない。
なるほど。それらしく見えるようにするためには、要素を絞り、「らしさ」を際立たせる必要がある。例えばロゴやアイコンのデザイン、それこそキャッチコピーなど、具体的な事物を抽象的に表現するプロセスでも似たようなことが起こります。
たとえば、パウル・クレーは次のように述べています。
芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある。
ーーパウル・クレー『造形思考(上)』
また、ジョアン・ミロは次のように述べています。
細部を全部示すことは、すべてのものを大きくふくらませる想像の命を奪うことになる。
ーージョアン・ミロ
「らしさ」をつくるウソ。
「想像」のためのウソ。
抽象化において重要になるのは、何を強調し、何を捨てるのか、という選択にあると思います。強調することで、入り口をつくる。捨てることによって、人の心が入り込む空間をつくる。入り口は狭く、出口は広い。抽象表現はそんな感じがします。
もうひとつ、蒼風の言葉を引用します。
花がいけばなに使われるとき、
素材として自由に使っていいのだといっても、
花が持っている言葉を
無視することはできないのである。
草木みなものいうことあり。
この文はすでに、
我が国の最も代表的な古典、
日本書紀に示されているのだが、
強く共感をおぼえる。
花は人間に、深いさまざまな謎をかけてくるのだ。
見る時、見る人によって、
その謎は無限といえよう。
いけばなは、花と語りつついける。
そんな感じにおちいることがよくある。
ーー勅使河原蒼風『花伝書』
デザインにおいても、素材が持っている言葉を無視することはできません。素材と語りつつデザインする。実際、そんな感じにおちいることはよくあります。素材と向き合うことで、何を強調し、何を捨てるのかがわかってくるからです。
「ウソをつけよ、ウソがまことなのだ」
ウソをつくということは、「らしさ」や「魅力」を発見し、その魅力を際立たせるために要素を絞り、かたちを整えていくこと。そのプロセスの中心には、作り手のまことの心がある。
デザインといけばなのアナロジーがここにありました。この言葉も、デザインの本質に迫っていると感じています。
追記
最後に、デザインの巨匠・ブルーノ・ムナーリの言葉を紹介したいと思います(教えてくれた妻に感謝)。
俳句とは
言葉の生け花
ーーブルーノ・ムナーリ『ムナーリのことば』
ムナーリは、「俳句」をいけばなとして捉えている。詩や小説ではなく「俳句」を、いけばなとして捉えている。いけたら、言葉は、人になる。ここに、ムナーリのものの見方が反映されていそうで興味深く感じます。
言葉を造型(いけ)れば歌になる。
詩にもなる。
俳句にもなる。
長く綴れば小説にもなる。
ーー勅使河原蒼風『勅使河原蒼風 瞬刻の美』
俳句をいけばなにたとえるムナーリと、いけることを中心に考える蒼風。西洋人が主語的に対象を捉え、日本人が述語的に対象を捉える思考のクセが、ムナーリと蒼風の捉え方の違いを生み出しているのでしょうか。
考え出すとキリがないので、ここまでにしておきます...。
今回は、わたし自身が大きな影響を受けた人物のひとり、勅使河原蒼風の言葉を「デザインを語ることば」として紹介しました。引き続き、わたしにとって魅力的な「デザインを語ることば」を紹介していきたいと思います。