見出し画像

天下人・三好長慶と藤井聡太王将をつなぐ高槻の地【今日の余録】

天下人と言えば織田信長や豊臣秀吉を思い浮かべるが、実は彼らより前に「天下人」と呼ぶにふさわしい武将がいた。三好長慶みよしながよしだ。最近の研究で、彼こそが「戦国最初の天下人」として再評価されている。

畿内の実権を握った長慶が居を構えたのが、余録にもあるとおり、大阪府高槻市の芥川城あくたがわじょう

そんな長慶に関する新出の史料が、昨年発見された。天文22年(1553年)の書状で、主君であった細川晴元ほそかわはるもととの対立の末、長慶が実権を握る過程を生々しく伝えている。将軍足利義輝あしかがよしてるが晴元側の武将たちに酒を振る舞い、長慶への敵対姿勢を鮮明にした際。重臣の松永久秀まつながひさひでは「大したことはない」と強気な姿勢を崩さなかったことが書状に書かれている。その翌月、長慶は義輝を京都から追い払い、芥川城に入城した。

この芥川城の発掘調査からも、おもしろいものが見つかっている。当時としては珍しいせんと呼ばれるタイルを使った建物跡だ。塼は中国から伝わり、日本では6世紀末以降、主に寺院建築に用いられてきた建材。正方形や長方形の厚い平板状をしたこの塼には、鳳凰や唐草の文様が刻まれ、寺院の床や壁を美しく飾ってきた戦国の世に、こうした優美な建材を城に取り入れた長慶は、いくさだけでなく教養も重んじた武将だった。当時の支配者に求められた学問や芸能に通じ、茶の湯や連歌も好んだ。1551年には将棋をやりたいと申し出た記録も残る。

ちなみに、将棋の相手は公卿くぎょう吉田兼右よしだかねみぎで、打った場所は松永久秀の弟・松永長頼まつながながよりの居城(?)だったらしい。

そして時は流れ、現代。芥川城のふもとに関西将棋会館が移転し、藤井聡太王将と永瀬拓矢九段の一戦を控える。長慶も好んだであろう将棋を指した地で、約470年の時を超え、また新たな名局が生まれようとしている。

今日の余録と参考資料

いいなと思ったら応援しよう!