大企業病の正体 〜中小企業もスタートアップも患うメカニズム〜
WHOが天然痘の根絶を宣言したのは1980年のことでしたが、科学技術が遥かに発展した今もなお猛威を振るい続けている病理、それが大企業病です。コロナなんて比じゃありません。大企業での勤務、大企業や中小企業との取引、官公庁との取引、スタートアップの支援をしてきた身として明確に感じるのは、大企業病は必ずしも大企業だけが直面する病理ではなく、スタートアップさえも罹患しうるものだということです。
多くの企業にとって他人事ではない問題であるにも関わらず、撲滅される日が中々来ないのはなぜでしょうか。それは一つには、この病理がガンのように基本的に進行性の疾患で、一度かかれば自然治癒するものではないということと、もう一つは、「大企業病になるとどうなるのか」という症状ばかりが議論され、酒の肴として消費されることはあってもその原因はほとんど議論されてこなかったところにあるのではないかと思います。
そこで本稿では、大企業病あるあるを列挙することよりもその根本原因の究明を主眼とし、そのための仮説について考察してみたいと思います。
そもそも大企業病とは何なのか
SF映画のエイリアンから新世代の新人まで、実態のよくわからない相手と戦うのはひたすら辛いことです。なので「大企業病とは何か」を知ることが撲滅の第一歩になりそうです。ただ、「大企業病」という言葉自体は広く知られている一方で、残念ながらいい感じの定義は存在せず、極めてふわっとしています。Wikipediaでは一応次のように定義されています。
主に大企業で見られる非効率的な企業体質のことである。組織が大きくなることにより経営者と従業員の意思疎通が不十分となり、結果として、組織内部に官僚主義、セクショナリズム、責任転嫁、縦割り主義などが蔓延し、組織の非活性をもたらす。社員は不要な仕事を作り出し、細分化された仕事をこなすようになる傾向がある。(Wikipediaより引用)
大方異論は無いかとは思いますが、この定義では、組織が大きくなっても大企業病にならない企業や小さくても大企業病にかかっている企業があることの説明がつきません。
一方、アカデミックレベルではどうかというと、大企業病を扱っている論文自体が少なく、論文検索サイトの「CiNii」で「大企業病」と検索しても112件(本稿執筆時点)しかヒットしません。しかも大抵は商業論文でアカデミックな厳密さはありません。その中で、株式会社リクルートマネジメントソリューションズが2016年に発表したこちらの調査では、比較的包括的にリサーチされています。
ただしここでも、症状が多岐に亘るからか、「大企業病とは何なのか」ということは明確に定義されておらず、大企業病という巨悪の正体の掴みにくさが表れています。
逆に言えば、症状によって大企業病を定義することは諦めた方が賢明で、大企業病とはどこからやってくるのかということそのものを大企業病の定義と捉えることで、この病理が取り扱い可能なものになるのではと思います。
上位概念との断絶
なぜ、オーナーシップは欠如するのか。なぜ部門間は断絶するのか。なぜ事なかれ主義になるのか。なぜ無駄な手続きが多いのか。なぜ意思決定が遅いのか。なぜ上の顔ばかり窺い非顧客志向になるのか。そして、なぜ自社が大企業病になっていると憤っている社員は自社を変えられないのか。僕はそのことがずっと疑問でした。大企業で働いていた時も、大企業をクライアントとした仕事をしていた時も、ずっとモヤモヤしていました。
しかし、スタートアップ専門のデザイン&コンサルの会社を起業してひたすらスタートアップやスタートアップマインドのある大企業と仕事をするうちに、逆説的に、大企業病組織を構成する個人に、ある共通した思考パターンがあることが見えてきました。組織単位ではなく、個人単位であることがポイントです。
それを一言で言うと、「上位概念との断絶」です。ここで言う上位概念/下位概念とは、例えば次のようなことを指します。
目の前で起きた現象をそのまま受け取り、なぜそれが起きたのか・その現象の意味は何なのかということまで想像や理解が及ばないのは、現象に対する意味という上位概念と断絶しているからです。こういう場合、意味を読み解いた人がいくら「合理的に考えて左にすべし」と主張したところで、「いやでもー、お客さんは右だと言ったんで」「社長は右だと言ったんで」と押し返されるのが関の山です。今は客単価よりも市場シェアを伸ばすのが長期的には正解なのに、経営陣や株主から「昨対比で売上が下がってるぞ!!どういうことだ!もっと本気で売上を上げろ!!」と圧がかかるということも起きるでしょう。
同様に、部分最適にとらわれて全体最適から判断ができないのが全体との断絶。セクショナリズムはその最たるものですが、オーナーシップの欠如も、全体における自分の立ち位置・重要性が見えていないことから起きるのではと僕は考えています。
目的との断絶は比較的明確です。社内の手続きルールが神格化されたり、最新機器を導入したのでそれを使う商品を考えろという大号令が下ったりといった組織を挙げた思考停止コントは手段の目的化によるケースが多いと言えます。
勘違いクライアントや勘違い上司、勘違い無能社員などは自分を客観視できない人種におけるトップアスリートではないでしょうか。フィジカルは強い。iPhoneが登場した時のブラックベリー(RIM)、デジカメが登場した時のKodakがそうであったように、市場において自社が置かれている状況を客観視できないという終わりの始まりも、この構造が生じているパターンと考えられます。
上記以外にも、こんなケースも。「中長期」という上位概念と断絶した「目先」に囚われている時は、とにかく問題を先送りにしたり、事なかれ主義に陥りがちです。船場吉兆のささやき女将(←たとえが古い)が反感を買ったのは、ブランドの再建ではなく目先の火消しに走ったからでしょう。
また前提という上位概念と断絶している時は、「失敗の前例」が猛威を振るうので、「あの時失敗した」をいつまでも引きずり、前提が変わったことを無視するという暴挙が普通にまかり通ります。崖の先までダッシュしてしまい気づいたら真っ逆さまに落ちていく古典アニメのワンシーンのようです。
これが、多くの企業カルチャーに触れてきた中で見えてきた、大企業病の原因、病原体に関する仮説です。
大企業病パンデミック下で弾圧される少数民族
先ほど、組織単位ではなく個人単位で原因を捉えることがポイントだと書きました。大企業病に冒された組織において全員がウォーキングデッドかというとそうとは限らず、少数ながらまだマトモな人が生存しているケースが多いことや、スタートアップのような小集団でも発生することを考えると、大企業病は組織が起こすものというよりも個人が起こすものと考えた方が辻褄が合うからです。大企業病思考の人と大企業病思考でない人の構成比において、前者の個人がある閾値を越えるとパンデミックが発生し組織として大企業病に至るということです。
そしてここに、別の悲劇の原因があります。大企業病化した組織において上位概念と接続できている人は、もはや少数民族なのです。多数派が聡明でない社会では、少数民族は必ず弾圧されます。どんなに正しい声を挙げても、ウォーキングデッドに勝つのは極めて難易度が高いことと言えます。なので少数民族たちは自分たちのため、いや組織や社会の未来のために闘っていても、やがて自分も罹患してウォーキングデッドとなるか、難民として「他国」に亡命するほかなくなるのです。後者を一般に「優秀な人材の流出」と言います。
正論オジサンの主張は「正論」ではない
「上位概念の断絶」は他にも様々なことを説明してくれます。その一つが「正論」をめぐる諸問題です。「正論」はその文字の通り「正しい論」だったら何の問題も無いはずです。ですが実際には「そりゃそうだけど...でもどうも納得が行かない」と何かモヤモヤしたものが残ります。論理と感情の対立かというと、そうとも言い切れません。それはなぜかというと、"正論"と呼ばれるものは実際には「正しい論理」なんかではなく、「最適解のフリをした欠陥ロジック」だからではないでしょうか。つまり、上位概念と接続していないがために見落としがあり、ロジックとして欠落が生じるのです。だからこそ、「そもそも解決すべき問題は何だったのか」「今は何を優先すべきで、何は気にしている場合じゃないか」といった上位概念を確認することが、無益な"正論"を撃破することにつながります。正論艦隊が海に沈んだ後には、平和が訪れます。戦犯となった正論オジサン(オジサンじゃなくてもいいけど)以外のメンバーにとっては、自分たちの信じる道・信じたい選択の正当性が、上位概念に検証され、また補強され、一歩踏み出す自信と勇気が湧いてくるからです。みんなハッピー。戦後はぜひ寛大な心で、正論オジサンも供養してあげてほしいものです。
大企業病患者はなぜ権威に弱いのか
大企業病に陥った組織は、ルールという手段を目的化して頑なに守らせようとする堅さを持っている一方で、権威の一声で180度言うことが変わる、ある種の柔らかさ(脆さ?)も持ち合わせているのはなぜなのか、僕は長らく疑問に思っていました。「就業規則をきっちり守れ!定時は絶対!」というスタンスも、ひとたび国が「プレミアムフライデー」と言えば「金曜日の夜は早く帰りましょう(^v^)」へと手のひらを返し、あれほど「副業だと!?自社の利益を最大化せず他社に塩を送るなど言語道断!」という感じだったのに、ひとたび国が「働き方改革」と言えば「副業とかやってオープンイノベーションとか起こしましょう(^v^)」などと言い出す姿は、二重人格かな?と思えてしまう不思議さがあります。外部の権威のみならず、社長はじめ経営陣が言い出したことにも同様です。営業部門などよりも、特に管理部門(現場から遠い部門)でこの傾向が強いようです。
この奇妙な現象についても、「上位概念の断絶」を当てはめると説明がつきます。つまり、上位概念と断絶しているということは彼ら自身は上位概念を持ち合わせてないということであり、その代わり、権威が上位概念のアウトソース先になっている、ということです。彼らにとっては、権威こそが上位概念なのです。だから現場が前から声を挙げていようとも、権威がウンと言うまではそんな声は聞こえないというわけです。
嘘つき企業ビジョンというエセ上位概念
そうなってくると、「いかにして上位概念と接続するか/接続を絶やさないようにするか」が大企業病を回避するポイントになりそうです。その策の一つとして「企業ビジョン(orミッション、バリュー)に立ち戻って考える」という良さげな手が思いつきそうですが、ここにもトラップが潜んでいます。次に掲げるのはアメリカのある大企業のバリュー(行動指針)です。どこの会社か分かりますか?
正解は、不正会計によって破綻に追い込まれたエネルギー会社、エンロンです。本当にこの通り行動できれば、経営判断できれば、そんなことにはならなかったはずです。少なくとも経営陣にとってこれらはお飾りにすぎず、本当の意味での行動指針なんかではなかったのです。
上記の例はバリュー(行動指針)ですが、企業のゴールや存在意義であるビジョンも同様です。本当に「お客様第一」ですか?本気で「ナンバーワン」を目指していますか?「豊かな社会」って何のことですか...?本音ではそんなことさらっさら信じていない嘘つき企業ビジョン(や、当たり障りのない薄ぼんやりしたビジョン)を上位概念として拠り所にした日には、志ある者の情熱と使命感は虚しく空を切ることでしょう。なので企業としての本当の上位概念が「何なのか」については細心の注意を払う必要がありますし、少なくとも社内政治を上手くやるには必須でしょう。ただ願わくば、本当の上位概念が「何であるべきか」を、トップは真剣に考え、組織の末端までそれが徹底されてほしいものだなと思います。経営者、従業員、そしてこの世界のために.....
うがい・手洗い・換気、そして抗生物質
正直に言うと、上位概念との接続をいかに担保するかということについて、僕自身の中でまだ完全に整理がついているわけではありません。まだ道半ば。臨床研究を重ねていかねばなりません。ただ現時点で仮説として可能性を感じているのは、「うがい・手洗い・換気を徹底する」ということ。ここで言う「うがい」とは、自分の発言(や思考)が下位概念に縛られていないか折に触れて省みるということ。誰かに何かを強く要求した時やNOを突きつけた時は特に注意すべき瞬間かもしれません。また「手洗い」とは、自分が知らず知らずのうちに下位概念の暴力に手を染めるような行動をしていないかをチェックし、違反があれば是正するということです。これは何かをジャッジする時や、人事考課のための面談などでチェックできるガイドラインみたいなものがあるといいのかもしれません。すみません、まだぼんやりしています。
最後に「換気」とは、外の空気、外からの血を積極的に入れるということです。同じ組織の中に長くいると、何が非常識で何が常識なのかだんだんと分からなくなり、上位概念と接続した状態を知らないと断絶自体にも気づきにくいものです。一方外部の人間は下位概念だけで回っているエコシステムの外にいる人間なので、そのヤバさに比較的気づきやすいという側面があります。
普段、スタートアップの「機能するビジョン/ミッション/バリュー」を策定する案件が多いのですが、最近ではスタートアップマインドを持ち込んで組織文化を変えたい、という大企業からご相談をいただくようにもなりました。それだけ、「換気」が求められているということでもあるのかもしれません。
ただし、外の空気、外の血(中途採用の人材など)には、できるだけ大きな権限を与えるか、権限の大きな人のそばに引き入れないとあまり意味がありません。もとの下位概念システムに従うことを強要してしまうと、せっかくの新鮮な視点・人材もたちまち淀み、ただウォーキングデッドを増やすだけになるからです。
一方で、これらうがい・手洗い・換気を再現可能な仕組みに落とし込むか、根気よく継続していくか、適切な権限配分にすることで、それらは菌の増殖を抑える強力な抗生物質になりうるとも思います。スタートアップにとっては未来への備えとなるかと思います。
本当は「会社」なんて存在しない
「ウチの会社は大企業病だ」という言説を聞くたびいつも感じるのは、「でも、あなたもその『会社』の一人だよね」ということ。自分も社会の構成員でありながら「社会が悪い!」とドヤ顔で糾弾するコメンテーターをつい思い浮かべてしまいます。法的な意味は別として、極論を言えば社員個人から分離された「会社」なんてものは存在しないにも関わらず、自分とは別物と考えてどこか他責にしているようにも見えます。
自社の大企業病化を嘆く時、嘆いている個人にもきっとできることがあるはずだ。少なくともそう信じたい。そんな想いがあって、僕は「上位概念との断絶」という個人の次元に落とし込んだ「原因」に行き着いたのかもしれません。ホモ=サピエンスは集団の連携力によって今日の繁栄を築いたと言われていますが、決して橋が架かることのなかった上位概念/下位概念の谷に最初に橋を架けるのは、集団ではなくあくまで個人だと思うのです。つまりあなたかもしれません。
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