宿題を出さなかった自分


2024年5月29日

ずっと評価されることに晒されている。

小学生の頃から、ずっと。
私の行動や思考に対して、○をつけられ、点数化される。
それがストレスと感じることは、割と少なかった。

多分、親のおかげだろう。

私の親は、私に対して「良い点数をとれ」とか「勉強をしろ」とか言ってこなかった。
(まあ、覚えていないだけかもしれないが)
勉強に関して言われたことがあるのは、「宿題を朝にやるな」ぐらいで、私はそこまで真面目な子ではないので、小学生の頃から宿題を出さないこともあった。

しかし、“宿題が自分の勉強に必要だ“と思い始めてからは、ちゃんと出すようになった。
“宿題をやらない自分“がいたからこそ、“宿題をやる自分“を好きになれた。

私の中には“宿題をやらない自分“がいることを小学生の頃から自覚していた。

親に勉強を強要されなくても、私が今まで勉強を辞めなかったのは、周りの友達の影響が大きい。
私の通っていた小学校も中学校も、クラスの半数以上が勉強に対して一定の“習慣“があったように思う。いわゆる意識高い系な子が多かった。
ガリ勉な子や勉強ガチ勢もいたが、それよりも当たり前のように授業を受け、テストに対して真摯に取り組む子が多かった。
その雰囲気に流されることで私は勉強をしていた。
こども特有の環境適応力がここで存分に発揮されていた。

たしかに、私は勉強において、点数への固執がない。
それは常に高い点数を取っているからではない。
私は怠惰な側面を持っているため、テストで低い点数を取ったこともあるが、そこまで落ち込まないし、×がたくさんついた答案用紙を見たことがある。
校内順位も受験の際の偏差値も、ストレスと感じたことはほぼない。
しかし、唯一ストレスと感じることがある。
それは、周りからの評価である。

〇〇賞や点数化されない不透明な評価にいつも悩まされる。
〇〇賞は何も私に喋ってくれない。
私のどの行動が良くてどの部分がこの名誉に値するのかを誰も教えてくれない。
「なあ、教えてくれよ、私のどの部分が評価されたのか」と思ってしまう。
きっと私の良いところがあって、そこに気づいてくれた人がいたのだろう。

でも、それを〇〇賞としてまるッと切り取られ、私の中から消えていった感覚に陥る。
その時、私の中に残るのは、“宿題を出さなかった自分“
名誉に恥じぬよう生きようとしても、結局“宿題を出さなかった自分“が顔を出す。
急に私の中の好きじゃない自分にスポットライトを当て続ける日々が続く。
「お前、宿題を出してない時あったよな」
自分に問いかけてしまう。自信がないわけではない。
私は誰よりも自分の見たくない部分を最前で見なくてはならないのだ。
周りが私を評価すればするほど、私の良いところは、私だけのものではなくなり、私の手から離れていく。

ただただ“宿題を出さなかった自分“というイヤな側面だけが残る。

周りからの評価は不明瞭なことが多い。
だから、憶測で評価された部分を考えてしまう。
そして、いつか“宿題を出さなかった自分“までも失うのかもしれない。

その時、私は誰だ?

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