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Episode 095 「難しい事を、難しい顔をしてやるのは誰にでもできる」
Episode094にて触れたスーパーマンであり親友であるヨシヤ君との出会いの他に、この学校(補習校における)にて国語の担任をして下さったキナミ先生という方との出会いも忘れてはならない。
当時(1998~1999年)、私は14歳~15歳、キナミ先生は10歳ほど上の二十代半ばだった。その為、キナミ先生は良いお兄さん、という印象を勝手に抱いていた。
東海大学で柔道をバリバリにやられていたということもあり、マッチョな印象があった。印象、というか実際にそうだった。尚、キナミ先生によると、お相撲さんのパワーは尋常ではない、とのことだそうだ。
彼が東海大学時代にお相撲さんが練習の場に来たことがあり、後ろから両腕でロックをされ、それ(お相撲さんの両腕)を外すという(柔道用の)練習をしたそうなのだが、全く外れなかったというエピソードを教えてくれた。
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一度、補習校での授業が終わり、木南先生の家に遊びに行ったことがあり、そこで、当時のキナミ先生の彼女にも会った。
補習校を卒業した2000年以降、顔を合わせる機会がなくなってしまったのだが、私が日本に帰国して2年後(従って、確か2012年だったと記憶する)にキナミ先生の家にお邪魔することになった。ご結婚もされ、また双子のお子様もいらっしゃった。
それから数年後に再度会い、食事をした。併せて、かれこれ5年も前になってしまうのだが、2019年9月、ラグビーワールドカップの試合を横浜の日産スタジムに観戦しに行った。ニュージーランド対南アフリカの試合だった。初めてのラグビー観戦となったのだが、その迫力は想像を遥かに超越する内容となっていた。
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このアデレード日本語補習校というサタデースクールには、一つ下の学年にショーンというアメリカ人と日本人のハーフの男の子がいた。彼の下には、ジュリアンという弟もいた(尚、本人たちに確認はしたことはないが、彼らの名前はジョンレノンの二人の息子(それぞれの母親は異なる)、ショーン・レノン及びジュリアン・レノンから来ていると個人的には思っている)。
どの様にして、ショーンと友達になったかは具体的に思い出せないのだが、補習校では授業と授業の間に休み時間があったので、その時にサッカーを一緒にしたことから仲良くなったのではないかと記憶する。
我々が日頃日常的に通うハイスクールは違った(因みに、私はアデレードハイスクール。彼が通っていたハイスクールは私立の超名門校であった)ものの、彼とも直ぐに仲良くなり、週末も遊ぶ様になった。
またもや、サッカーで仲良くなるきっかけができたのだった。そう、ネイルスワースプライマリースクール(Episode008参照)でも、アデレードスクール(参照)でも、そうだった様に。
彼の家に行っては、サッカーをしたり、スケートボードをしたりした。彼の家には楽器が複数あった記憶がある。バイオリン、ピアノ、ギター、そしてドラムなど。
弟のジュリアンがエレキギターでBlink 182のWhat’s my age again(1999年発売)という曲を、パソコンの前に座り、(モニターの中の)Tab譜を見ながら練習していた光景を憶えている。
尚、彼らの母親はジャーナリスト、父親は大学の教授ということもあり、二人とも忙しくしていたと思われる為、家を留守にしていることが多かった。従って、子供達(ショーンとジュリアン)は両親に注意されないことを良いことに、(控えめに言っても)遊びたい放題であった。
よくやった遊びとしてはやはりサッカーだったが、スケボーを始めたのは彼の影響だった。また、スケボーに付随するファッションとして、Dickies(服のブランド)のダボダボパンツ(ズボン)を履き、アディダスのスーパースターを履き、ニューヨークヤンキースのベースボールキャップを被り、正にスケーターのファッションを大いに取り入れる、という事も行っていた。
余談となるが、2019年10月の終盤から11月の初めに掛けてハワイに行った。初めてのハワイだ。ハワイ島(Waikikiなどの街がある島、オアフ島よりも更に大きな島)のWalmartにてDickiesが売られていたのだが、その値段を見て驚いた。
当時(2000年前後)オーストラリアでは(豪ドルで)100ドル(当時の日本円で約8,000円)を軽く超えていたと思われるパンツが2019年のハワイ島のWalmartでは(米ドルで)30ドル(日本円で約3,500円程度)程度で売られていた。
オーストラリアでは、スケートボードショップ(例えばMyerの中にあったDaily Grindというショップなど)や、(スケーターなどにとっては)オシャレな洋服屋さん、ストリートファッション専門の古着屋さんなど、つまり、そこそこの洋服屋さんでしか購入する事が出来なかった中、アメリカではWalmart(大型ファミリーショッピングセンター)にて販売している、というその状況にも驚いた。
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尚、ショーンとは日本語で会話をしていたが、彼は日本語も英語も完璧に使いこなした。「ハーフ(尚、最近ではダブル、という言い方もあるとのこと)だから英語も日本語も両方喋れて当たり前じゃない?」という声が聞こえてきそうだが、実はそんなに単純ではないのだ。
ハーフでも、英語または日本語のどちらか一つの言語しか喋れなかったり、または両方が中途半端になってしまう、というケースもよくある(または、実は相当高い確率で両方(英語及び日本語)が中途半端なケースが多いかもしれない)。もちろん、それが悪い、とかそう言った話では全くなく、つまり、(両方の言語を)完璧に使いこなすということの難易度の高さ、が論点である。
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従って、「ハーフ(ダブル)だから」や「海外生活が長いから」、または「幼少期から海外にいるから」など、これらだけの理由のみではバイリンガルにはならないのではないか、というのが個人的な意見である。
では、どうすれば良いのか。具体的に何が必要なのか。どうすれば、日本語も英語も両方しっかりと喋れるようになるのか。それは、本人及び周囲(例:保護者)のマインドセット(姿勢、マインドセット、努力、的な類)ではないかと考えられる。
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あたり前といえば、当たり前だが、非常に重要なことである。環境及び努力の割合で言うと、個人的には2:8程度ではないかと感じる。言い方を変えると、つまり、環境(幼少期から海外にいるetc)が揃っていたところで、それがもたらす影響力はたかが知れている、と言うことである。
環境以上に、努力次第で(ある程度は)どうにでも結果(英語の上達具合)は変化してくる。ただ、ここでの注意するべき点は、英語そのものを「言語」単体としてみた時に限る、という点である。
それ即ち、「英語を喋れる様になる」という目標を達成するには、環境よりも圧倒的に努力の方が直接的な影響力があるのだが、「英語を使って心を通じ合わせる」というレベルまで到達するには努力のみではどうにもならない部分があるのは否めない。
つまり、ここで初めて環境という要素も重要になってくる。英語を使って、尚且つ現地の空気に触れ、現地の人々と色々とやり合ってきたかきたかどうか、という点が非常に重要になってくる。
この点が明らさまになるのは、例えば翻訳の作業をする時などである。翻訳という作業を「言語の変換」と捉えるか、「心(キモチの部分)の変換」と捉えるか、の違いである。
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言葉の裏にある意味、想い、感覚、ニュアンス、などを読み取れるかどうか、である。
他には、例えばだが、いくらスムーズな英語を喋れる日本人でも、(例えば)オーストラリア人と(ビジネスではなく、例えカジュアルに(友達として))会う際に、スッと右手を出して固い握手をする、という仕草(文化、カルチャー)は出てこないかもしれない。
または、仕事における堅いプレゼンであってもちょくちょくジョークを挟む重要性および必要性、などに対する理解度合いも或いは低いかもしれない。
尚、あの元大統領であるオバマ氏などはよくスピーチ内でジョークをかましていた。「笑い」にも、おそらく複数の種類があり、もちろんくだらない類の笑いもあると思われるが、例えば「ユーモア」などは、違う。「ユーモア」とは、つまり、「知性」として西洋文化では捉えられている。
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これは、実際にオーストラリアに(ある程度の時間(年月))住んでいた、という経験がないと、なかなか理解できない事の一つかもしれない。もちろん、これはオーストラリアに限ったことではなく、アメリカや他の西洋の国(またはそれ以外の国でも)でも行われているが、例としてオーストラリアを出したに過ぎないが。
ちなみに、ショーンはこの点(英語と日本語の両方をしっかりと喋る)に関してはしっかりと網羅していた。恐らく、彼自身の努力もさることながら、周り(彼のお父さん、お母さんなど)のサポートもあっての結果だと思われる。
尚、ショーンとはハイスクールを卒業するまでは頻繁に遊んでいたのだが、私が大学に進学したタイミング辺りから会う頻度が急激に落ちた。その後、連絡もあまり取らなくなってしまった期間もあったが、2010年以降、私が日本に帰ってきた時には彼は既に日本にいた為、また会う様になった。2、3年に一回程度の頻度ではあるものの、昔の様に会う事ができて嬉しく思っている。とは言え、最後に会ったのは、コロナ前だ。
久しぶりに連絡でもしてみようかなと思う今日この頃。