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戦略①~人生における取捨選択~

人生において何度か極限まで追い込まれた窮地がありました。
もちろん人間なので敗けたこともありますが、その中で4回、「自分を褒めてあげたい」成功体験があります。今日はその内の1つを紹介します。
読者の方にとって、取捨選択を迫られた時や、越えられない壁を目の前にした時の”ヒント”になれば幸いです。

きっかけ

僕の出身地・盛岡市には「大通り商店街」略して「大通り」と呼ばれている場所があります。カラオケ・映画館・ファミレス・ミスドがあり、これこそが都会だと信じていました。しかし、10歳くらいの時、とあるきっかけで知ってしまいます。

モブ1「すいませーん、『大通り』ってどこですか??」
俺「え、ここが『大通り』ですよ」
モブ1「え、まじかよ」
モブ2、3「これで『大通り』らしいよwww」
俺「・・・・・・・・。」

衝撃的でした。大学生くらいの観光客グループが僕に気づかせてくれました。僕が都会だと思っていた故郷の風景は、人によっては廃れているように感じる。僕の故郷は田舎でした。
「自分が将来やりたいことは分からないけど、とにかく東京に住む」
そのときから心に誓っていました。
僕が、よく通行人に道を聞かれる件について、前回の記事にも記載しました。↓ ↓ ↓ ↓

高校3年生、9月。

しかし、いざ大学受験を控えた高校3年生の時、窮地が訪れます。時間不足に加え、圧倒的学力不足。なぜなら高校時代、僕の脳内メーカーが以下のようになっていたからです。野球のことしか考えていませんでした。

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高校は進学高でした。入学前から膨大な宿題が出されました。その宿題を皮切りに、僕は3年間まともに宿題を提出できたことがありません。こんなこと、中学時代の僕からしたら想定外でした。
中学時代の僕は少し余裕があって運が良かっただけです。授業中は、教科書にパラパラ漫画を描いていたり、利き手と違う左手でノートをとったりしていました。それでも、7クラスあった学年で1位を取ったこともあります。
対して、高校在学中は美術以外ほぼ赤点でした。具体的に言えば8クラス中、下から10番くらい。
それが、甲子園をかけた最後の1試合を終えた後、思い知らされます。僕は、進学高に入学したという事実があるだけで、知能は退化していることに。それに気づいたのも最後の試合に敗け、1ヶ月後くらいでした。ずっと放心状態でした・・・。
2年半、甲子園の夢を見続けて、夢から醒めたらセンター試験まで5か月ほど。高校入学時に60くらいあった全国偏差値が、35くらいまで落ち込んでいました。でも、甲子園を目指し、それ以外のことを犠牲にしたことについて後悔はありません。昨年、ラグビー日本代表選手がよく「犠牲」という言葉を使っていましたが、ものすごく共感しました。

どうにか大学に入る方法を考えよう。考えるんだ。

軸の選定

まず、受験するにあたってこれは譲れないという軸を決めました。

1.東京の大学に進学すること
冒頭で触れた通りです。単純に日本で一番の都会を肌で感じたかったからです。しかし、当時付き合い始めた彼女が東京に就職することが先に決まったことで、絶対条件に変わりました。
2.浪人しないこと
母親に言われたからです。「弟は中高一貫私立高校に通い始めて学費がかかっている。妹もこの先どうなるか読めない。できれば・・・」と言われました。僕の可能性を狭めた決断だったと考えることもあります。しかし、その後出会った「友人」や「体験」のことを思えばこの判断は間違いではありませんでした。
3.国公立大学に進学すること
これも母親に言われたからです。理由は上記2と同じ。
でも、僕は最悪、私立大学だとしても、死ぬ気でバイトして学費を稼ぐ気でいました。借金しても就職して返せばいいと考えていました。

将来やりたいことなんてありませんでした。
もし、あなたが将来やりたいことがあるのであれば2浪でも3浪でもすればいいと思います。何年でもかけて挑戦できることは、それだけで「努力のセンス」があると思います。
僕はただ、東京を感じて、両親を安心させたかっただけです。
まず、東京の国公立大学を洗い出す。特に気になったのが、「首都大学東京(インダストリアルアート学科)」でした。
センター試験で必要な科目は、「国語・数学・英語・選択科目1つ」
二次試験は「英語・数学・デッサン」でした。ビビッと来ました。
幼少期から好きだった"お絵かき"が二次試験にあるし、勉強する科目を減らすことができる。好きなことをやりながら手抜きができる。
それからとにかく数学・英語を中心に猛勉強しました。国語も勉強しましたが、選択科目1つには手が回りませんでした。でも、センター試験は選択式だし、物理・化学・日本史・現代社会のどれか1つは運良く及第点までいけるだろうと割り切っていました。

いざ、大学受験へ

センター試験はそんなに甘くありませんでした。国・数・英は及第点だとしても選択科目は1つも当たりませんでした。4打数無安打3三振。無念。
前期は「首都大学東京」を受験し、後期は「東京海洋大学」を受験することにしました。海洋大は、首都大東京と同じようにセンター試験で必要な科目が少なく、二次試験は英語のみです。自己採点もC判定だったので「いけるかも」ぐらいに考えていました。
周囲の友人達が二次試験に向け、ノートに難しい数学の証明問題や、長文英語を解いている間、僕はスケッチブックにデッサンを描いていました。
美術の先生にお願いして、1から教えてもらいました。めちゃくちゃ怒られました。「鬼滅の刃」で鱗滝さんが主人公の炭次郎をしごくように。でも僕は、「なるほど、その感覚が大事なんですね!」ってキラキラしていました。炭次郎のように。
首都大学東京の前期試験は、そのデッサンで三振を喫しました。普通、カンニングって試験中してはいけませんよね。でもデッサンの試験は、どう頑張っても周囲の人が描いている絵が目に入るんです。解答用紙が大きいから。
「あ、いま俺は敗けてる」
そう思いながらデッサンを提出しました。結果は不合格でした。でも、まぁそんなもんかって思いました。次の海洋大に受かれば、自分が決めた軸からは逸れていない。後期試験まで英語だけ勉強しました。
海洋大の後期試験は、中学英語のような穴埋め問題でした。

「これはウラをかいてこう書けばいいのか?」
「いやウラのウラで、結局おもてだからこう書けばいいのか?」
悩んだあげく、ほとんどの解答を『that』で埋めました。
「あ、また敗けた・・・。滑り止めの私立大学に、俺は入るんだ」
「往復5時間、俺は1時間悩んだあげく『that』を書くためだけに東京に来たんだ・・・」

結果発表

結果は合格でした。理由はよくわかりません。運が良かった。
でも、人生なんてそんなもんなんだなって思いました。
今、体調を崩して休職しているのも運が悪かっただけ。切り替え始めている自分がいます。これを読んで下さった方にも、何か抱えている大きな悩みや敵がいると思います。その時は真正面からぶつかるだけでなく、時には、自分の好きなことをしたり、逃げたりすることで道が開けることもあるということをお伝えしたいです。
以上、最後まで読んでくださってありがとうございました。


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中村友隆
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