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短編小説 「ハイボール」


俺の名前はハイボー。  

グラスに注がれたばかりのハイボールさ。  

笑いたきゃ笑えよ。気取ってるって? それでも構わないね。俺はいつだってハードボイルドで生きてる。生まれたての炭酸がまだシュワシュワとうるさく弾けているこのグラスの中で、な。

この店はどこにでもある安酒場ってわけじゃない。カウンターの木目は飴色に光っていて、昼下がりに来る客なんざほとんどいない。まばらな薄暗い照明と、ちょっと小粋なジャズが静かに流れてる。カランコロンと氷の音だけが響き渡るほど寂しげな時もあれば、夜には浮かれた客が騒ぐこともある。けれど、今の時間帯はしんとした空気が漂ってて、やたらと自分の心音が聞こえそうだ。

マスターは渋い顔をしてカウンターの奥で仕事をしている。さっきから酒瓶を磨いたり、バーテンダーなんて呼ぶにはあまりにも無骨そうな手つきでグラスを拭いているが、意外と細かいとこまで気を配るタイプらしい。俺を作るときも同じだ。鉄板のウイスキーとソーダを丁寧に注いで、軽くマドラーを回した。そのまなざしには確かな誇りがあった。そう、これが「大人の飲み物」ってわけだ。

まあ、俺はその結晶ってとこか。グラスの冷たさと琥珀色の輝きに包まれながら、シュワシュワの炭酸を湛えてる。自分で言うのもなんだが、なかなかいい面構えだろう? そこに、いかにも疲れた顔をした客が腰を落ち着ける。仕事帰りに立ち寄ったって表情だな。わずかに乱れたネクタイと、憂いを帯びた目が俺に言うんだよ。「聞いてくれ」ってさ。だから俺はそっと応えるわけだ。「聞くだけなら、いつでも歓迎さ」とね。

もっとも、声なんか出ない。あくまで俺の中で鳴り響く独り言。それでもこの客はわかっているはずさ。愛想笑いを浮かべることもなく、ただじっと俺を見つめてる。そうさ、わかってる。この男、今日は相当ツラいことがあったに違いない。背中に重そうな影がのしかかってるぜ。多分、仕事か。それとも、女絡みか。ま、俺にとってはどちらでもいい。あんたが何に悩もうが、俺はただ、ノドを潤すための存在なんだからな。

けど、黙って飲まれるだけじゃ、ハードボイルドが泣くってもんだ。だから俺は、グラスの中からそっと問いかける。「なあ、辛いことがあるなら、いっそ全部吐き出しちまえよ。俺を飲み干して、ソーダの泡に流しちまいな。そうすれば少しは楽になるんじゃないのか?」……なんてな。どこかの二流探偵の台詞みたいだが、俺はそういうのが柄なんだ。ハードボイルドはやめられない。

男は俺の独白なんて知らない顔で、ため息をついている。うっすらと赤みが射した頬。目の奥に沈んだ闇。ああ、どうやら相当踏んだり蹴ったりだったみたいだな。でも安心しろよ。誰もあんたを責めやしないぜ。少なくとも、俺はそういう細かいことは気にしないタチだからな。

男はぐいっと俺を口元に運ぶ。ほろ苦いウイスキーと炭酸の喉ごしが、やつの奥底で泡立つ。おかげでほんの少しだけ、その肩が軽くなったように見える。俺だって報われた気がする。ハードボイルドたるもの、悩める人間を救うために存在してる……なんて大層なことを言う気はないが、ま、スカッとした顔を見られたなら上出来さ。

けど世の中、いいことばかりじゃ終わらない。思わぬ出来事は突然にやってくる。こんなふうに。男がわずかに手を滑らせた。それだけのことだ。わずかな揺れに、俺の身は宙を舞うようにカウンターから投げ出される。背後で客の悲鳴が聞こえる。マスターが「お客さん!」と声を上げる。しかし、もう遅い。俺のグラスはどうにもならない角度で床に向かってまっ逆さまだ。

ああ、思えば俺はグラスという檻の中でカッコつけ続けてきた。だが、その檻がもう終わりを迎える。硬い床に衝突した瞬間、ガシャンと甲高い音が響く。ガラスがあっという間に粉々に砕けて、ウイスキーとソーダが床を濡らす。まるで俺の血と涙が広がっていくみたいだ。

だけど、不思議と悲壮感はない。俺のハードボイルドな魂は、いまや重力から解放されたような気さえする。散り散りになったガラス片が、照明を反射してキラキラと光を放つ。これまでグラスの中から眺めていた世界を、今度は違う角度から見下ろしているようだ。そして俺は心の中で最後の台詞を呟いた。

「やっと自由になれたぜ」

客は慌てて破片を避けながら立ち上がり、マスターがモップと雑巾を持ってやってくる。申し訳なさそうに頭を下げる男の姿が、逆に小さく見える。俺が思うに、この男はもう大丈夫だろう。いや、根拠はないけどさ。ハードボイルドはいつだって理屈じゃなく、なんとなく感じるままに生きるもんだ。  

こうして俺、ハイボーは、一瞬のうちに木っ端微塵になった。でも後悔なんてないぜ。最後の最後まで、自分なりの気取りを捨てずにやれたんだから。俺は炭酸の泡とともに夢を見ながら、淡く消えていくのさ。



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テヘペロ。

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