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短編小説 「魔女のファミレス」


朝の光がファミレスのガラス窓をすり抜けて、まだ準備中の店内のテーブルをやわらかく照らしていた。埃一つない窓から見えるのは、通学する子どもたちと、通勤で急ぎ足の大人たち。店内には椅子を整える音と、抑えた声で雑談するスタッフ。

リリーは奥の厨房で小さなため息をつき、唇をきゅっと引き結んだ。五十代になるその顔には深いしわが刻まれ、ワシ鼻がつんと上を向いている。背中は丸まりがちだが、動きに淀みはなく、指先をヒョイと振るわせて、浮かぶ鍋や食器を並べるその手際は慣れたものだ。遠い昔に覚えた魔法をこっそり使いながら、湯気の立つ大鍋を静かに浮かせて移動させる。重さは十キロ以上あるが、リリーにとっては軽いものだった。

魔法界を飛び出して三十年近くが経つ。魔法の家系で生まれ育ったとはいえ、その血筋は強力な力を持っているわけではなく、せいぜい十キロ程度の物を浮かせたり、料理を作り出す魔法が限界。そんな微々たる能力を馬鹿にされながら生きるよりも、人間界で生きていくことを選んだのだ。

当時、魔法界の家族たちは皆、「そんな非力な魔力じゃ苦労するだけだ」と冷ややかに言った。けれどリリーは大きな荷物をひとつぶら下げ、人間界へと旅立った。

最初のころは環境や価値観のズレに戸惑いながらも、どうにかアルバイトを重ねて知識とお金を得る日々。そんな中、リリーが落ち着いたのが、とある人間のオーナーが経営する小さなファミレスだった。人手不足の厨房に飛び込み、魔法を隠しつつ料理を作る腕を買われて、やがてシェフとして雇われることになった。


厨房の大きな換気扇が低い音で回り始める。リリーはガスコンロの火を確認しながら、山盛りの食材を浮かせてレーン上に並べる。周りにスタッフがいれば、「重いものを軽々持つ不思議なおばさん」とだけ思われるが、幸い今は誰もいない。スタッフの多くはホール側で開店準備をしている。

仕込みを終えた頃、オーナーが慌ただしく奥に顔を出した。太った体を少し揺らしながら、「リリーさん、今日もワンオペ頼むよ。このところ人手不足でね」と言い捨てるように言うと、すぐに事務所に戻っていった。リリーは「はい、わかりましたよ」と、小さく呟く。こうして一人で大量のオーダーを捌く日が続いていたが、彼女は文句を言わずに淡々と仕事をこなす。

昼が近づくにつれ、お客さんがどんどん入店してきて、オーダー票が長く伸びる。客席の賑やかな笑い声が厨房まで届き、リリーは忙しさで息をつく暇もなくなってくる。ステーキソースの香ばしい香り、フライヤーから立ち上る油の熱気、ミネストローネのトマトの酸味が混ざりあい、厨房の空気は刺激的な匂いで満たされる。小さな魔法を使って鍋を浮かせたり、背中の向こうでナイフを浮かせて食材を切ったり、リリーは何とかオーダーを捌き続ける。

だが、連日の長時間労働とワンオペの負担はリリーの体にじわじわと堪えていた。ある晩、閉店間際のオーダーが入り、フライパンを魔法で浮かせたままふらりと立ち眩みを感じた。気がつくと、フライパンを落として熱々の油が宙に飛び散るも、なんとか新聞紙飛ばして防いだものの、声にならない悲鳴が胸の奥でとぐろを巻く。厨房の床にへたり込み、目が霞んでいく。「ごめんね」と呟くように言うと、そのまま意識を失った。

リリーは救急車で運ばれ、病院のベッドでしばらく休むことになった。ファミレスのオーナーは見舞いに来るどころか電話一本で「代わりを雇ったから。余裕があればまた雇う」と言うだけ。自分の席はないだろうとはわかっていたが、リリーは受話器を握りしめ黙ったままだった。

そして、リリーが回復した頃、新しいシェフのファミレスは評判はあまり良くないらしく、客足も落ちていた。リリーがファミレスを訪れると店内の空気がどこか淀んでいて、フライパンを振る音や炒める匂いが以前より重い。ホールのスタッフも減っており一人のスタッフが忙しそうに動き回るなか、リリーは遠巻きに厨房を見守ったが、もうどうすることもできない。

その時、オーナーが渋い顔で出てきて、「店を売ろうかと思うんだよ」と苦しげに言った。リリーは胸がちくりとした。「店を売る……」ふと、「私が買い取ったらどうなるんだろう」と頭に浮かぶ。魔法界を捨ててやってきた自分に、そんな大きなことができるのか。でも料理は好きだし、魔法でみんなを喜ばせることができるかもしれない。震える手をぎゅっと握って、オーナーに言った。「私に店を譲ってくれませんか?」

オーナーはアゴを押さえて考えこみ、「……いいよ。そっちが買うなら助かる。借金はあるが、それでもいいのか?」と問いかける。リリーは微笑む。魔力が弱くても、料理を作り出す魔法であれば何とかなる。人間界でこそ、この小さな魔法が活かせるはずだ。

それからは色々大変だったが、リリーは店を手に入れ、改装し、メニューを考え、ホールスタッフを探して研修し……連日息をつく暇もない日々が続く。けれど、前とは違う。自分の店だから、好きなだけ魔法を使い、愛情を込めて料理ができる。新しい看板を飾り、小さなランプを灯すファミレスに、人々が少しずつ戻ってくる。

店を閉めた後、リリーは厨房で鍋を片づけながらふと思う。「あの魔法界を出てきて本当によかった」。食材が踊るように浮かび上がり、まるでお礼を言っているかのように傾く。リリーは優しく笑い、「さあ、明日も頑張ろうね」と小さく声をかけた。

今日もリリーはファミレスの厨房に立つ。フライパンから立ち上る湯気がしわのある顔を柔らかく包む。かすかな魔法の力と長年の経験が合わさり、一皿一皿に優しい味を宿していく。客席では幸せそうに笑う家族連れやカップルが、運ばれてきた料理を口にし、ほっとした笑みを浮かべている。

 「これでいいんだわ」

そう呟くと、リリーは鼻歌まじりに次のオーダーをさばき始めた。厨房には軽やかなカトラリーの音が響き、魔法のような料理が次から次へと生まれる。夜の帳が降りはじめる頃、看板にかかる小さな灯りが揺れ、通りを歩く人々が「魔女のファミレス」と書かれたその店の名を興味深そうに見つめていた。




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テヘペロ。

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