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短編小説 「見えない糸」
私の名前はエヌ。どこまでも広がる青い空を見上げるのが好きで、晴れの日には草原の真ん中に寝転んでしまう。そよ風が吹くと、髪がふわりと揺れ、遠くに見える山がかすかに微笑んでいるように思える。
この世界にはたくさんの村や町が点在していて、人々や獣たちがそれぞれの暮らしを営んでいるらしい。だけど、私はそのどこにも属していない。生まれたときから、草原と森と川があるだけのひっそりとした場所を家にしていて、日々を悠々と過ごしている。家といっても、しっかりした建物があるわけじゃなく、木の枝や大きな葉っぱで作った簡素な小屋のようなものだけれど、私にはこれで十分。風や雨を少ししのげればそれでいいんだ。
空が曇る日には、霧が立ち込めて視界がぼんやりと白くなる。そんなとき、私は自分の中で鈴の音が鳴るような気配を感じることがある。何か遠い遠いところで、私を呼ぶような響きがするのだ。物理的な音が聞こえるわけじゃない。心の奥で小さな振動が起きるような感覚。知らない誰かが、優しく手を伸ばしてきているみたいな、そんな温かい気配だ。
これが何なのか、ずっとわからない。それでも日常の中に、何か見えない糸がつながっているような気がしてならない。ある瞬間に、「あれいま、私、なにか変化した?」と気づくときがある。まるで風が吹くでもなく、誰もいない場所にいるはずなのに、私の気持ちが勝手に変わってしまうような、ふわっとしたきっかけを感じる。
たとえば今日の朝、いつものように目を開けると、「どこかへ行かなくちゃ」と強く思った。理由は見当たらない。ただ、胸がそわそわして、いてもたってもいられない気分になる。いつもなら草原でごろごろして過ごす日なのに、今日は立ち上がって、大きなリュックを背負って森へ向かう用意をしていた。なぜそんな行動をとろうとするのか、説明できないけれど、何かが後押ししている気がする。
私がこうやって行動やなにかが変化するとき、どうやら遠い場所で「エス」という存在が同じように反応しているらしい。それを直接見たことも、確かめたこともない。でも、心のどこかで「エスが何かを選んだなら、私はそれと対になる動きを選ばなきゃいけない」と感じる瞬間があるのだ。いや、正確に言えば、私がこっちを選んだらエスがそっちを選んでいるのか、それともエスが決めたから私が決まるのか、そこはもうわからない。とにかく、私たちは離れた場所にいながら、片方が決まるともう片方も決まってしまうという不思議な関係にあるような気がした。
そして、「エス」という名前をなぜ知っているのかも定かではない。まるで生まれたときから脳裏に刻まれているみたいに、エスが私の“もう一人の存在”としてそこにあると確信してしまう。話で聞いたわけじゃない。眠りの中、誰かがささやいたわけでもない。ただ、いつの間にか「エスと私はつながっている」と思うようになった。
ある夕方、真っ赤に染まる川辺で座っていると、また鈴が鳴った気がした。まるで誰かが私を呼んでいるようで、だけど姿は見えない。エスなのか?思わず立ち上がり、小川の浅瀬をジャブジャブと進む。ここで回り道をすれば、丘の上に出る道に続くだろう。いや、もしかすると川下に降りていけば新しい景色に出会えるかもしれない。
その瞬間、胸にふわりと穏やかな波が広がる。まるで私の決断を待つように静まっていた空気が、小さく揺らめいた気配を感じる。エスも動いたのか?このとき私が右に進むなら、エスは左を選ぶのかもしれない。もし私が左に回り道をするなら、エスは反対を選ぶのだろう。私たちは絶対に出会わないようにできているのか、それとも道の途中で交わることがあり得るのか。私にはわからない。
とりあえず今日は川下に降りることに決め、私は足をそちらへ向ける。そうするとどこか遠くの空がパキンと音を立てて弾けたような、私だけが感じ取る“何か”があった。エスはきっと私の行動が決まったことで、別の選択をしたんじゃないかと考えてしまう。想像にすぎないけれど、その確信が心を駆け抜けた。
夕焼けはすっかり色褪せ、紫色の夜が近づいてきた。道を進んでいくと、林の間から細い月が浮かんでいるのが見えた。足元には草がしっとりと露をためて、私の足首を冷たく濡らしている。ひとりぼっちの旅に慣れているはずの私でも、このときだけは少し孤独を感じる。「もしエスがここにいてくれたら」と考えてしまう。
夜空を見上げると、無数のプチプチした光が絡まり合っているようだった。あれは星どうしが結びついているわけじゃないのに、何か目に見えない糸があるのかもしれない。そう思ったとき、「私たちもきっと同じなんだ」とはっきり心に言葉が浮かんだ。
エスと私は、決して出会わない。だけれど、何か見えない糸で結ばれている。片方がどう動くかによって、もう片方のあり方まで影響してしまう。私が右を選べば、エスは左を選ぶ。エスが止まれば、私が動く。そんなふうに、私たちはずっと遠い場所で結びついているんじゃないか。
星が夜の空に溶けるように、私の思いも静かに胸に収まっていく。エスと私は、名前をお互い知っているのに会えないなんて不思議だけど、もしかするとそれでいいのかもしれない。お互いが干渉しすぎず、でも確かに影響し合っているという関係が、私たちの生き方なんだろう。
「こんなふうに、見えない糸で繋がってるんだね」
誰に言うでもなく呟き、また一歩足を前に出す。エスがどこかで反対方向に踏み出す気配を感じるけれど、それはあたたかい秘密のようで、胸の奥でそっと光を放ってくれる。明日もたぶん、私は道を選んで歩く。そのたびにエスが違う方へ向かい、いつか私たちが地平線を超えて、また新しい空を見つけるのかもしれない。その空がどんな色をしているかはわからない。
時間を割いてくれてありがとうございました。
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テヘペロ。