短編小説 「給料あがりますか?」
目覚まし時計に起こされ、私はバタバタと家を飛び出した。いつもギリギリの時間に出てしまうのが悪いとわかっているのに、ベッドから起き上がれない。眠たい目を擦りながらマンションの階段を駆け下り、風が頬を冷たく撫でる中を自転車で駅へと急ぐ。電車の中では何とか座席に滑り込めたものの、「あー、また同じ日が始まるのか」とため息が漏れる。
私はブカチャン、ただの会社員。名前のとおり会社では部下扱いが多く、最近になって業務もそこそこ覚えたせいか、あまり新鮮味のない日々を送っている。かといって仕事がめちゃくちゃ忙しいわけでも、めちゃくちゃヒマなわけでもない。そこそこに頑張って、そこそこに定時で上がる——そんな無味乾燥な日々のせいで、なかなかテンションも上がらない。
会社に着くと、すでにオフィスの空気は少しざわついている。シュレッダーの唸る音や電話の呼び出し音が響き、同僚たちはパソコンに向かってカタカタとキーボードを叩いている。窓の外はくもり空で、ビルの合間に薄い光が差し込んでいるけれど、なんとなくどんよりとした印象だ。
デスクの引き出しから資料を取り出しつつ、ふと「給料」のことを思い出してしまう。そう、私の頭の中では、このところ「給料、上がんないかな」という願望が渦巻いているのだ。社会人になって数年、初任給から大きく昇給した記憶がない。気づくと家賃や光熱費、通信費、毎日の食費などで給料はほとんど消えてしまい、貯金もままならない。スマホを新しくしたいとか、ちょっと旅行行きたいとか思っても、お金が足りないと気づいてがっかりするのが常である。
「給料、上がりますかね?」 周囲の雑音をかき分けるように私は小声でつぶやく。
誰にも聞こえないとわかってはいるが、その瞬間にジョウシサンの姿が視界に入った。私たちの部署の上司であり、デスクの一角を占領している。腕を組んで眉間にしわを寄せている姿は、何か深刻そうに見えるけれど、声をかけてみるか。を立ち、ジョウシサンの隣にすり寄った。
「ジョウシサン、ちょっとよろしいですか?」視線を上げて「どうした?」と首をかしげる。
私は挨拶がわりに「今日もよろしくお願いします」と言いつつ、意を決して聞いてみた。
「給料って、上がるんでしょうか? 何をしたら上がるんですかね?」
するとジョウシサンは一度肩をすくめ、「んん、どうだろうか」と唸るように困った顔をした。なんだか歯切れが悪い。「わからないなあ。会社の業績とかもあるし、何より……うーん」と言葉を濁したまま、デスクの引き出しを開ける。そこから取り出したのは、小さな袋に包まれた「ハッピーターン」だった。
「いつも頑張ってくれてるから、これでも食べなよ」とジョウシサンは差し出す。「粉を舐めるとぶっ飛ぶよ」
私は一瞬目をぱちくりして「えっ、ありがとうございます」と受け取ったが、給料の話はどうなったんだろうか。その代わりのお菓子をもらっても解決にならない。けれど、ジョウシサンは急に別の電話がかかってきたらしく、「あ、もしもし……」と通話を始めてしまう。私はそれ以上聞くこともできず、ハッピーターンを手に苦笑いするしかなかった。
デスクに戻り、さっそくお菓子を食べる。甘じょっぱい味が口に広がり、ほんの少しホッとする瞬間。だけど思うわけだ。給料上げてって言ってるのに、お菓子一枚で誤魔化されてる感じがたまらなく悲しい。私はアルミ袋の口を眺めながら、「本当に頑張れば給料が上がるのか、それとも手を抜けば不思議と上がるのか……」なんてバカな妄想を頭の中で巡らせる。業績がいいときは上がるのか、資格を取れば上がるのか、残業すれば上がるのか……はたまたそういう問題でもないのかもしれない。会社の仕組みは謎が多すぎる。
あっという間に業務時間が過ぎて、気づけば外は夕暮れの色になっていた。窓の向こう、オレンジの光がビルの壁を照らし始めている。私は書類を片付けながら、ちらちらとジョウシサンの方を見やる。朝はあんなに悩んでいた顔が、今はまだ同じように険しいようだ。もしかすると、私の給料など二の次で、いろいろ上に稟議を通したりするのが大変なのかもしれない。私は一人勝手に「頑張ってくれてるのかな」と思うことにした。
そして翌日、昼下がりになってジョウシサンに会議室に呼ばれた。「ブカチャン、ちょっといい?」なんて妙にやわらかい口調で言われると、内心ドキドキする。もしかして、あの給料の件、いい方向に行ったりするのかな? そんな期待が膨らんで、私は胸を弾ませながら会議室のドアを開けた。そこは蛍光灯の光が無機質に広がる小さな部屋で、白いテーブルが置かれているだけの空間。ドアを閉めると静寂が支配する。
ジョウシサンは気まずそうに目をそらしながら、腕組みをして言いにくそうに語り始めた。「うーん、あのな。給料の件……現状維持」そうか、そうだったか。
私は心の中で「ですよねー」と叫んでいるけれど、言葉に出さずに「わかりました」と目を伏せる。期待をしていたわけでもないけれど、実際にそう言われるとショックは大きい。どうやら私は、まだしばらくこのままの給料で仕事を続けることになるらしい。手を抜いてもダメ、頑張ってもダメ。まあ、一朝一夕では変わらないってことなんだろう。
会議室を出て、自分のデスクに向かうと、「まあそんなものだよね」と小さく呟いて苦笑する。同僚たちは何事もなかったようにパソコンに向かってカタカタとキーを叩いている。私は隣の席の後輩に笑顔で「お疲れさま」と声をかけながら、また自分のデスクの上に視線を落とす。するとそこには、ハッピーターンが一袋置いてある。ああ、これが私への評価かい、と少しイジケた気分だけれど、仕方ない。
パソコンを立ち上げ直し、目の前に積まれたタスクを眺めながら「しょうがないか」と心の中でつぶやく。いつか、この努力が報われる日は来るのだろうか。それともこのままずっと現状維持なのだろうか。まあでも今は、取り急ぎ目の前の仕事をこなさなきゃ。給料が上がらなくても、会社員としてやるべきことは変わらないのだから。
ため息混じりにエクセルの画面を開き、静かな決意を抱きつつキーボードを叩く。また「給料あがりますか?」と自信を持って聞けるように、もう少し頑張るしかないのかなと。そんな納得とも妥協とも言えない気持ちを胸に、また一日が過ぎていく。
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