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短編小説 「女将の小言」


カランッ。
ハイボールジョッキの中の積み重なった氷が崩れて音を立てた。小料理屋のカウンターテーブルに黒い背広姿の会社員がうずくまっていた。その男はおもむろに胸ポケットから茶封筒を取り出して、ひらひら揺らしながら掲げた。

「見ろこれがうちの会社のボーナスだ。一万だ」

黒背広の男の右隣に座っている、頭にネクタイを巻きつけた真っ赤な顔をしている男がその茶封筒を見ながら拍手をしはじめた。それは次第にほかの客達にも伝染し皆で黒背広の男に拍手を送った。黒背広の男は両手を掲げて深々と一礼を送り、感謝の言葉を述べた。

「ありぃがとょう。これぽっちのボーナスの会社に勤めている俺に拍手をくれて、本当にありがとょう」

カウンターの向こう側からはその様子を女将と若女将が笑いながら煮物を皿に盛り付けている。若女将が茹でたインゲン豆をザルから煮物に盛り付ける時にボソッとつぶやいた。

「一万円もくれるならいいじゃない」

それを聞いた女将が口角をちょっぴりあげて、こう言った。

「ボーナスの意味をなしてないから会社が損をしただけね」

若女将は手を止めて女将の顔を見つめて「得するボーナスってあるんですか」と言った。女将は手際よく煮物をお盆にのせ、それを持って厨房から客のもとへ煮物を届けた。若女将は下唇べろっとだして不満げな表情を浮かべる。

黒背広の男のおかげか小料理屋は静かな晩酌の場からゲラゲラとした笑い声が響く居酒屋に変わった。火付け役の黒背広の男はハイボールジョッキを握りしめながらカウンターにうずくまり、ぶつぶつ一人言を喋っている。

女将が厨房に戻ると若女将はすっかり手を止めて、さっきの話しを聞き出そうと女将の目をピシッと見ていた。

「さっきのどういうことなんですか」と若女将が聞くと、女将は若女将の尻を叩いて「働いて」と言った。若女将が持ち場に戻ると女将が口を開いた。

「会社がボーナスを出すのは社員の士気を上げるためでしょう。なのに、社員が求めている額よりも低く出ししちゃうと、ボーナスを出しているのにもかかわらず士気は上がらず、むしろ下がって文句を言われちゃうの」

若女将は目を見開いて「確かに」とこぼした。女将は熱燗を準備しながらさらに続けた。

「なんでそもそうだけど、塩梅が重要なのよ。中途半端にやるくらいならやらないほうがマシだったりすることもあるの」

若女将はうんうんと頷くも手は止まっていた。

「うちもそうね。中途半端に出すくらいだったら出さないほうがマシかもね」と女将は言いながら、大根をまな板の上に置いた。それを見た若女将はすぐに包丁を手に取り、その大根の皮を剥きはじめた。

女将はニコニコ笑いながら熱燗をお盆にのせて、「はいはい熱燗が通りますよ」と言いながら再び厨房から客のもとへ向かった。

女将の声に反応したのか、黒背広の男が急に起き上がりハイボールジョッキを掲げながら「おかわりぃ」と言いながら、ゲップひとつをかました。

「あいよ」と女将は答えた。




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