短編小説 「バスの運転手」
朝の陽が昇り始めたばかりの静かな街、ミヤモトは路線バスのエンジンをかけた。36歳の彼は、すでに10年以上この仕事を続けており、始発から終点まで乗客を運ぶ日々を送っている。観光客や地元の人々を目的地まで安全に送り届けることに誇りを感じていた。
「今日も一日、よろしくお願いします」と、ミヤモトは独り言をつぶやき、出発の合図を送った。
最初のバス停で数人の乗客が乗り込んできた。毎日顔を合わせる常連客や、観光に来た家族連れが微笑みを浮かべながら座席に腰を下ろす。ミヤモトは穏やかな気持ちでハンドルを握り、バスを進めた。
その日も大半の時間は何事もなく過ぎていった。しかし、昼過ぎのバス停で一人の老人が乗り込んできた瞬間、状況は一変した。老人は白髪で背筋がピンと伸びており、手に持った杖をトントンと床に打ち付けながらバスに乗り込んだ。
バスが再び動き出すと、老人はすぐに文句を言い始めた。「運転が荒い!速度を出し過ぎだ!車間が狭い!」と、老人の声は車内に響いた。ミヤモトはこれまで一度もクレームを受けたことがなく、最初は困惑したが、次第に苛立ちが募ってきた。
老人の言葉に乗客たちは不安そうな顔を見せたが、ミヤモトは冷静さを保ち、ハンドルを握り続けた。そして、突然アイデアが閃いた彼は、マイクを手に取り、車内放送を流した。
「皆さん、こんにちは。このバスはミヤモトが運転しています。皆さんの生殺与奪の権は私が握っています。どうぞご安心ください」と皮肉を込めて言った。
車内は一瞬、静まり返った。乗客たちはお互いに顔を見合わせ、皮肉の意味を理解したのか、クスリと笑う声が聞こえてきた。しかし、老人だけは納得しない顔をしていた。
やがて、目的地に到着し、老人はバスを降りた。しかし、最後の最後に老人は振り返り、バスの側面を蹴りつけてから去っていった。
ミヤモトは深呼吸をし、乗客たちに向かって微笑んだ。「皆さん、ご迷惑をおかけしました。それでは、次の停留所まで安全運転で参ります」と言って、バスを再び動かした。
その日の最後の便が終わる頃には、再び穏やかな気持ちを取り戻していた。彼にとって、どんな一日であろうとも、乗客を安全に送り届けることが何よりも大切なのだと再確認する日となった。
次の日、ミヤモトはいつものようにバスに乗り込み、エンジンをかけた。彼の心には、昨日の出来事がほんの小さな波紋として残っていたが、それもまた一日の終わりには消え去るだろう。彼の目指す先には、いつもの街並みと、いつもの乗客たちが待っている。
時間を割いてくれてありがとうございました。
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