短編小説 「坂道のダンゴムシ」
静かな丘の上の住宅地にほっそりと伸びた坂道があった。周囲は低い家々と白い塀、そして青々とした植木が並んでいて、子どもたちの自転車のタイヤ痕や、小さな落ち葉の集まった隙間がそこかしこに見える。晴れの日ともなると、日差しがやわらかく石畳を暖め、風に乗ってどこからかカレーの香り漂ってくる。そんな住宅地の坂道に、ある騒ぎが起こったのは、ちょうど日が傾き始めた頃だった。
騒ぎの主は、体長わずか一センチのダンゴムシのウドラスは灰色の丸い甲羅を持ち、普段は落ち葉に隠れているか、ひび割れ壁に身を潜めている。
この日、ウドラスはエサを探しに出かけていた。路肩に積もる落ち葉の下や、植木鉢のかげにある湿った土の匂いを頼りに、おいしそうな落ち葉を探していたのだ。ところが、頭上から緑色のきらりとした視線が降ってきた。大きな鎌をふたつ持つカマキリだ。大きな鎌をゆっくりと振りかざし、黒い目がウドラスを見つめている。
ウドラスはぎょっとして一瞬動きを止めた。「どうしよう、逃げなきゃ。でも足が……」と考える暇もなく、カマキリが近づいてくる。ウドラスは反射的に体をくるりと丸めた。丸くなるのはダンゴムシの得意技。体を守るために殻を硬く閉じ、ちょんと動かないフリをしてやり過ごすのだ。
ところが、カマキリの視線から逃れようとしたその勢いで、ウドラスはゆっくり傾斜になっていた地面の端を越え、コロリと転げ落ちる。少し湿った土から、次の瞬間には乾いた石畳の上へ。「ぽんっ」と小さな音がして、坂道のスタート地点にウドラスのまん丸い体が到達した。
そこからが大騒ぎの始まりだった。急勾配があって、丸まったウドラスの体はスルスルと転がり出す。彼自身もどうしていいかわからず、なおさら体を硬く丸めたまま。「わわわ!」心の中で叫んでも声にならず、外からは何も聞こえない。灰色の甲羅がちいさなボールのように跳ねながら、どんどん加速していく。
家々の白い塀がくるりと回転し、青空が足元に来たかと思うと次の瞬間には屋根の影が頭上に現れる。風がごうごうと音を立て、ウドラスの丸い体を冷たく撫でていく。落ち葉が舞い、小石がカラカラと弾けるような音を立てながら、まるでウドラスの後を追うように転がっている。
目をぎゅっと閉じた、景色がどうなっているのかほとんど見えていない。でも、時々うっすらと開くまぶたからは、空と坂道、そして風に揺れる植木の枝が逆さまになったり横になったりして視界に飛び込む。上下左右がぐちゃぐちゃに混ざり合い、頭がぐるぐるする。
「止まりたい、けど止まれない!」
丸い体がときどき縁石にぶつかって「コン!」と小さな音を立てながら弾かれ、さらに転がる速度が増していく。途中で通りがかった猫が驚いて飛び退く。標識のポールにかすめて、ちょっと方向が変わる。ウドラスは混乱しながらも、ただ坂道の流れに身を任せるしかなかった。
やがて、坂道の終わりが近づき、建物の影がまばらになってきた。坂道が緩やかに平坦になりはじめるのを、体が感じ取る。石畳からアスファルトへと切り替わった路面が、少しだけやわらかく感触を変えた。だんだん速度が落ちていくと、ウドラスは「ああ、ようやく止まれるかも」と、心のどこかで安堵した。
最後に「ぽすん」と音を立てて、小さな落差を越えたところでウドラスは緩やかに停止した。そこは歩道の端で、枯れ葉が積もった小さなくぼみ。乾いた葉っぱがぱりぱりと音を立て、ふわりとウドラスの体を包み込むように受け止めてくれた。
しばらく何も考えられないまま、ウドラスは丸い体をそっとほぐしはじめた。背中が軋むような気がして、小さな足を一本ずつ伸ばし、甲羅をゆっくり開いていく。すると視界に飛び込んできたのは、茶色く色づいた枯れ葉の山だった。車や人通りがあまりない場所のようで、落ち葉が掃除されずにいっぱい積もっている。
「……助かった」
ウドラスは静かに息をつき、ほっと目を閉じた。カマキリにも食べられず、坂道で大怪我もせず、無事に落ち葉のクッションに止まったのだ。まだ頭がぐるぐるしていて、何がどうなったか整理はつかない。それでも、この落ち葉の山のやわらかさに包まれていた。
車のエンジン音が遠くで轟き、小鳥のさえずりが途切れ途切れに聞こえてくる。風が優しく葉を揺らすたびに、音がシャラシャラと涼しげに響いた。
ウドラスは枯れ葉の匂いを嗅ぎながら、今の状況に気づいて笑いそうになる。自分は転がり続けた先で、こんな柔らかいベッドを見つけるなんて不思議だ。体の震えが少しずつ収まり、気持ちが落ち着いていく。
「……ここなら、しばらく休んでてもいいよね?」
誰にともなく呟き、落ち葉をちょこんと頭にのせてみる。音を立てて葉がばらりと崩れ落ちるのを見て、ニッコリと笑った。こんな自分でも、ここでは大丈夫。少なくとも今は誰も襲ってこないし、坂道に転げ落ちる恐れもない。
こうしてウドラスは、落ち葉のクッションの中で丸くなり、しばしの安息を得ることになった。ほどよい日差しが柔らかく甲羅を温め、体の中までぽかぽかした。ほんの少し重たい魔物の気配が遠のき、世界が優しく感じる
「坂道を転がり続けた末に辿り着いた先が落ち葉のふかふかの山だなんて、ちょっとおもしろい巡り合わせ」とウドラスは再び目を閉じ、心の中で小さな感謝を呟くのだった。
時間を割いてくれてありがとうございました。
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