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短編小説 「今夜の米騒動」


仕事から帰宅すると、フケが溜まった黒スーツを脱ぎ捨て、スウェットに着替えた。長い一日だった。デスクワークで体は疲れていないはずなのに、頭がズシリと重い。そんなとき、一番の楽しみは、家でゆっくりとご飯を食べることだ。

「さて、まずは米を研がないと」

炊飯器のフタを開け、米を計量カップで測る。米はもちろんコシヒカリだ。この手順が面倒だという人もいるけれど、僕にとっては心を落ち着ける作業の一つだ。手を水に浸し、冷たい感触を感じながら、軽く米を研ぐ。水が白く濁り、手のひらに米の粒が転がる感覚が心地よい。

「よし、これで完璧だ」

米を炊飯器にセットし、一息つく。けれど、まだやることがある。炊けるまでの時間を無駄にせず、今夜のご飯のお供を調達しに行こうと思った。ふと思いついたのが、明太子と沢庵。炊きたてのご飯に明太子をのせ、その赤い塊を豪快にかき込み、沢庵のパリパリ感を楽しむ。そして味噌汁で流し込む。想像するだけで、口の中に唾液が広がってきた。

財布とエコバッグを持って、スーパーまで向かう。夜の風は冷たく、歩きながら、ますます夕飯への期待が膨らんでいく。スーパーの明るい光が見えてくると、急いで店内に入り、迷うことなく明太子と、漬物コーナーの沢庵を手に取った。レジの店員に挨拶を軽く返し、すぐに帰路に着く。

家に戻ると、次は風呂だ。汗と疲れをさっぱり流したい。シャワーを浴び、湯船に浸かりながら、再び今夜の夕飯を思い描く。湯気の中で考えるご飯と明太子の組み合わせは、もうほぼ完成形だった。食事は単なるエネルギー補給ではなく、一日の疲れを癒してくれる大事な儀式みたいなものだ。

「今日は最高のご飯になるぞ」

風呂から上がり、体を拭いてスウェットを再び着る。部屋に戻り、そろそろご飯が炊けている頃だろうと炊飯器の方へ足を向けた。しかし、妙な違和感が僕を襲った。炊飯器から立ち上るはずの蒸気がない。ふたを開ける前に、思いもよらない事実に気づいた。

「まさか……」

炊飯器のスイッチを入れ忘れていた。真っ白な生米がそのまま残っている。炊けていないのだから当たり前だが、僕の心の中に描いていたご馳走のイメージが、今この瞬間に崩れ落ちた。

「やっちまった……」

しばらく呆然としていたが、すぐに現実に戻った。炊飯器のスイッチを押し直し、再び待つしかない。待つ時間が無駄に長く感じられるが、どうにもならない。

仕方なく、買ってきた沢庵を開け、パリパリと音を立てながらかじった。沢庵の塩気が口の中に広がるが、主役であるご飯がないこの状況は、どうにも物足りない。それでも、僕は沢庵をかじり続けた。せっかく買ってきたのだから、何かは食べたかったのだ。

やがて、米の炊ける音が聞こえ、部屋の中にほのかに立ち上る香りが届いた。それは、ついさっきまで期待していた香りだった。

「やっと炊けたか……」

今夜の米騒動もこれでひと段落。ようやく本格的な夕食が始まる頃、僕の心も、少しだけ落ち着きを取り戻した。




時間を割いてくれてありがとうございました。

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