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短編小説 「こころのコロロ」
ふと、紫色の丸いグミが揺れる。私のカバンのポケットの中にいつも入っている、あの小さな袋。その存在を思い出すたび、胸の奥がきゅっと甘酸っぱく締めつけられるんだ。UHA味覚糖のコロロ、巨峰味。弾けるようなみずみずしさと濃厚なぶどうの香りがたまらなく好きで、私は気づけばいつでもカバンに常備している。
でも、ただ好きってだけなら、よくある話だと思う。だけど私の場合はちょっと違う。気づいたら、コロロが私の心の中に住み着いてしまった――それも、はっきり声が聞こえるほどに。
きっかけは、あまりにもコロロを食べすぎた日。仕事の合間に一袋平らげてしまい、さらに帰宅途中にも止まらなくなって、帰り道のコンビニでまた新しいコロロを買ってしまったのだ。巨峰の香りを想像するだけで唾液が出てくるのだから、これはもう中毒といっていい。夜、部屋に戻って落ち着いたころ、突然心臓のあたりでぷちん、と何かが弾けるような感覚に襲われた。最初は疲れのせいかと思ったけれど、そのとき耳元で囁くような声がしたのだ。
「プチッとしようよ。みずみずしく弾ける感覚を、一緒に味わおうよ」
誰もいない部屋で、その声がはっきり聞こえた。最初は自分が空耳を起こしているだけだと。けれど、冷蔵庫を開けた途端にまた聞こえる。「ほら、テーブルの上に置いてあるでしょ? あれを口に放り込もう。どんなに疲れたって、甘い巨峰の香りが待っている」頭の中に浮かんだのは、私が先日買ったまま放置していたコロロ。
まさか、コロロがしゃべってるわけじゃないだろうに……そう思いつつも、妙な声を遮るため、私はスマホを開いた。誰かとメッセージのやりとりでもすれば、この不可思議な感覚は消えるかもしれない。
だけど、メッセージアプリには大した通知もなく、SNSを覗いても特に面白い投稿があるわけでもない。私はアプリを閉じる。すると、じわじわと脳裏に滲むようにささやく声が戻ってくる。
「ダメだよ、そんな適当なことで気を紛らわしても。欲しがっているんでしょう? あのみずみずしさたっぷりの甘味を」
確かに、私の口はすでに巨峰の香りと味を求めている。たった一粒食べたら満足できるかもしれない、そんな言い訳を考えながらも、変に意地を張ってグミの袋には手を伸ばさなかった。こんなに食べ続けたら、健康にはよろしくないし、何より歯が溶けるんじゃないかって怖い。だから必死に我慢したのだ。
ところが、次の日も、その次の日も、コロロの声は収まらない。仕事をしながらも頭の片隅で「プチッとしようよ」と甘い誘惑がこだまする。イヤホンを装着して音楽を大音量で聴いてみるけれど、あの声は鮮明に聞こえてくるのだ。「音楽もいいけど、コロロを口に放り込む瞬間の“あの食感”の方が、魅力的なんだろう?」と。
たまらず私は会社のトイレに駆け込み、鏡に向かって「落ち着け」と自分に言い聞かせた。ボサボサの前髪を整えながら、「大丈夫、今日はあと一時間で退勤。それからすぐ帰ってシャワーを浴びて寝ちゃおう」とつぶやく。でも、まぶたを閉じると紫の丸いぶにぶにグミが頭にちらついてどうにもならない。
休日になれば、この欲望はさらに増してしまう。自宅でゴロゴロしていると、あの声がひっきりなしに耳をくすぐるのだ。
「テレビのCMも退屈でしょう? だったらグミを噛んで弾ける感触を味わおうよ」と。たしかに休日は時間もあるし、ちょっとぐらいおやつを食べたっていいじゃないかと自分を甘やかしたくもなる。
部屋のテーブルには、まるで待ってましたとばかりにコロロの袋がいつも置いてある。よく見ると、紫色のパッケージが艶めかしく光を反射しているようで、ますます欲をそそる。心のコロロが、それを見ろとばかりに私に念を押す。「ほら、袋を開けて。ひとつ、ふたつ……いくらでも頬張ればいい」
私はその声をかき消すために、わざわざ外に出て散歩したりしてみた。だけど、コンビニの前を通りかかると、必ずコロロの棚が目に入ってくる。軽快なBGMが流れる店内で、紫色の袋たちが一列に並び、私を誘惑してくるのだ。
心のコロロはすかさず声を大きくする。「あそこにあるよ。大人買いしたっていいんじゃない? どうせまたすぐに食べたくなるんだから」
私が震える指でドアを開けると、冷たいエアコンの風が頬を撫でる。その感触までが妙にコロロのささやきと重なって、「もういいか、買っちゃえ」と半ばあきらめのような気持ちになる。そして、結果的にまたコロロを手にしている自分がいる。
しかし夜になると、その袋を開けるまいと引き出しにしまう。スマホに集中しようと動画を見たり、友人にメッセージを送ったりしてみる。だけど、なかなか気が逸れない。それどころか、ちょっと小腹が空いたなと思った瞬間、心のコロロが笑みを浮かべるかのようにささやくのが目に浮かぶ。
「もう逃げられないよ。プチッと一瞬で満たされるんだから」思わず布団を頭までかぶって、耳をふさぐみたいにして震える。こんなグミ一粒に翻弄されるなんて、情けなくておかしいんだけど、実際声が聞こえる以上はどうにもならない。
「食べたら負けだ」という意地と、「食べたい」という欲望。そんな葛藤が続き、いつしか深夜も近づいたころ。私はとうとう折れて、引き出しを開ける。そこには紫色の袋が待機していて、袋の上に書かれた「コロロ」の文字が暗闇の中でも妙に目立つ。私はごくりと唾を飲み込みながら、袋の端を指先で探り、ビリビリと破る音を味わうように聞く。
すると、ぷわっと甘い香りが立ち上ってきて、部屋の中が一気に巨峰畑に変身したかのような気分になる。
次の瞬間、心のコロロが勝ち誇ったように叫ぶ。「さあ、全部食べよう。思いきりプチッとして弾けよう!」
その声に反論する余地など残っていない。私の手は袋の中に潜り込み、やわらかくて丸いその姿をいくつもすくい上げた。どの粒もつやつやとして、夢のように輝いている。こんなに甘美な風景を、我慢という二文字で台無しにしたくはない。気づけば私は、袋の中身をまるごと口に放り込んでいた。
一粒、また一粒――ではなく、一気に全部。プチッ、プチッ、プチッ。いくつものコロロが同時に弾けて、濃厚な巨峰ジュースが舌の上に広がる。すぐに鼻から芳醇な香りが抜けていき、頭がくらりとする。甘酸っぱさに満ちた感覚は、まるで巨峰の海にダイブしたみたいだった。
こんな食べ方、普段なら絶対しない。でも、心のコロロが呼びかけるままに、私はそれを飲み込み、噛みしめ、さらに満たされていく。幸せなのか後悔なのかよくわからない感情がいっせいにこみ上げ、私はしばし言葉も出ない。
歯の隙間にわずかに残ったグミが溶けていくころ、袋は空っぽになっていた。床に落ちたゴミを拾い上げて、ふとほろ苦い現実に引き戻される。けれど、その一瞬だけは胸が暖かく、満たされている気がする。心の中であれほど騒いでいたコロロの声は、今はすっかり静かだ。まるで使命を果たして眠りについたかのような、穏やかな沈黙。私の口元には僅かな甘さが残り、鼻腔には巨峰の後味が漂っている。
なんだか負けてしまった気もするけど、これでいい。少なくとも今は、あの声に悩まされずにゆっくりと眠れそうだし、甘い夢が見られるかもしれない。私はゴミを小さくたたんで、ベッドサイドにポンと置く。そのまま枕に頭を預けると、瞼がじわじわと重くなる。頭の中には、紫色の海が広がっていて、その中をふわふわと漂う自分の姿が浮かぶ。たった数分前までの迷いなど、もうどうでもいい。
「こころのコロロ、今夜はごちそうさま」
プチッと弾けるみずみずしさの余韻を感じながら、意識は溶けるように眠りへと向かう。
時間を割いてくれてありがとうございました。
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コロロって美味しいよね。
テヘペロ。