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風雲児・大黒屋光太夫

マンガ『風雲児たち』の登場人物ゆかりの地を訪ねる旅「風雲児たび」。

2020年秋、大黒屋光太夫記念館で行われていた特別展「大黒屋光太夫とみなもと太郎『風雲児たち』」を観るために三重県鈴鹿市へ行きました。

光太夫3

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、1751〜1828)は江戸時代後期の船乗りで、鎖国中にもかかわらずロシアの帝都サンクトペテルブルグまで行き、その後日本に戻った人物です。

回船「神昌丸」の船頭だった光太夫とその一行が、伊勢国白子の浦から江戸へ向かう途中で嵐に遭い、七ヶ月間漂流ののちアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。故郷に戻るためロシア人と交渉を重ねながら、なぜかどんどん日本から遠ざかり、最後は女帝エカテリーナ2世に直談判し、帰国が叶うという大冒険をします。そんな苦労の数々が『風雲児たち』では面白可笑しく描かれています。

井上靖『おろしや国粋夢譚』、吉村昭『大黒屋光太夫』の小説、緒形拳主演の映画でも追体験できますね。

特別展では神昌丸の模型や乗組員がロシアから持ち帰った遺品、帰国後に描かれた肖像画や文書とともに『風雲児たち』の原画が並び、描かれている場面と所縁の品を照らし合わせながらニヤニヤ観てしまいました。

記念館前に立つ光太夫の銅像は、エカテリーナ2世から授与された金牌(金メダル)をしっかりと首にかけていました。マスクをさせられているのはどうかと思いますが・・・。

光太夫2


実は、光太夫の物語は歌舞伎にもなりました。マンガ『風雲児たち』を原作にして、三谷幸喜作・演出、松本幸四郎主演で舞台化されたのです。その名も「三谷かぶき 月光露針路日本(つきあかりめざすふるさと)風雲児たち」。

2019年6月、人生初の歌舞伎鑑賞をしました。定式幕、口上、鳴り物、見栄。歌舞伎の文脈に則りながらも、荒れる海の船上、シベリアの雪原、サンクトペテルブルグの宮殿が、確かに見える舞台でした。犬ぞりで雪原を走るシーンには、これが現代の歌舞伎なのかと、大笑いしました。

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シネマ歌舞伎「三谷かぶき 月光露針路日本 風雲児たち」


さて、『風雲児たち』で印象的なシーンをいくつか紹介します。

漂着先でロシア人とコミュニケーションが取れていなかった一行。若い乗組員の磯吉が「エトチョワ」つまり「これは何か」というロシア語をものにしたところから、会話の突破口が開くところは痛快です。

ロシアの政治的な思惑として、日本と交易を行いたいがために光太夫以前から漂流民を取り込み、懐柔していたことがわかっています。光太夫一行の中にもキリスト教に入教し、日本語教師としてロシアに残る選択をした者がいました。のちに彼が訳した書物が日本を救うことになる話も描かれています。

艱難辛苦の末帰国できたのは、光太夫と磯吉の二人のみでした。二人がもたらした情報を桂川甫周がまとめた『北槎聞略』は、のちの蘭学の発展、幕末の開国に役立ったことは間違いありません。ペリー来航の約60年前のことです。

蘭学者たちが西洋の新年を祝う「おらんだ正月」に招待された光太夫が、他の参加者や自分を痛々しく思うシーンは、〈本物の西洋〉を見てしまった者の心情をよく表しています。

漂流して日本に帰還するまで10年、江戸から伊勢へ帰郷するまでさらに10年。20年ぶりに故郷の空を見た51歳の光太夫はどのような気持ちだったのでしょうか。

光太夫5

東日本大震災からの10年とは比較できませんが、想像の助け舟にはなるかもしれません。

大黒屋光太夫、多くの人に知ってほしい風雲児です。


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