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預念(よねん)
砂浜に 念じた記憶 預けては
冬の訪れ 肌に感じて(女性)
ナレ:秋も深まり
落ち葉が目立つようになったころ
涼しい風が、僕の頬をくすぐり
そして、心地よい波の音が
僕たちの心を洗い流しているようであった
そんななか
うつむき加減だった彼女は、
ゆっくりと顔を上げながら
その重い口を開いた。
美知恵:「あなたには、理解できないと思います。
そう、若いあなたには。
覚えておきたいことや、大切な思い出など、
そうしたものが、指の間から
砂がこぼれるように消えていくのです。
その恐ろしさがわかりますか?
知っていた人の顔さえ、
次々に忘れていくのです。
いつか、きっと、あなたのことも
忘れてしまうのでしょう。
それどころか、忘れたという自覚さえ
なくなるのです。
それが、どれほど悲しいか、
そして、辛いか、
あなたに分かりますか?」
ナレ: 彼女は初期の認知症を患っていたのだ。
医師からも、そのように診断されている。
先日、交わした約束を忘れていて
その記憶さえない自分に気付いたときでさえ
うろたえることは、なかったのだが
成人して、まだ、間もない
目の前の若者に、その事実を
見透かされたときは、
ショックをかくせなかった。
普段は、この若者に接するときは
叱るか、注意するような
対応しかしておらず
言葉を替えれば、
「上から目線」でしか、接することがなかった
彼も、自分に対しては、一線を引いてたはずだ。
その彼が、いま、
自分を追い抜こうとしている。
その彼が、いま、私を、
助けようとしている。
いつの間に、これほど、
たくましくなったのだろう。
何が、これほど、
彼をたくましくさせたのか。
美知恵:「そうか、彼女の存在ね。」
心のなかで、
彼女の顔を思い浮かべていた。
彼女のために尽くした時間が
彼を、ここまでたくましくさせて
そして、いま、真理をつかもうとしている。
彼は、ぽつりとつぶやきながら
ささやいた。
トキオ:「たしかに、俺にはわかりません。
しかし、それが、どんな世界なのか、
あなただって、まだ、わからないですよね?
忘れたという自覚さえないのなら、
そこは、絶望の世界なんかじゃない。
まったく、べつの角度に
置きかえれば
それは、新しい世界です。
次々に記憶が消えるのなら、
新しい記憶を書き込んでいけば
いいのではないでしょうか?
明日の、あなたは、
今日のあなたではないかも知れない。
だけど、それでも、いいと思うのです。
俺は、受け入れます。
明日のあなたを、受け入れます。
それでは、いけませんか?」
トキオ:「忘れてしまうのなら、
新しく、想い出を創ればよい。」
驚くほど、素直に出た言葉だった。
いつもは、一緒にいると
緊張感しか感じることがなくて
極力、一緒にいることを避けていたのだが
なぜか、いまの彼女をは憎めない自分がいた。
逆に、温もりさえ感じている。
彼女が初めて見せる「弱さ」を
おれは、受け入れたいと思った。
彼女は、目を瞬きさせたあと
じっと、俺の方を見つめてきた。
そして、その重い唇を開くと
美知恵:「いま、私が、
何を考えているか分かりますか?」
トキオ:「いや、分かりません。」
「どんなことですか?」
美知恵:「あなたの、お母さんのことを
羨ましいと思ったのです。」
「心のそこから、羨ましいと・・・・。」
トキオ:「えっ?どうしてですか?」
美知恵:「短い年月だったとはいえ、
これほど、素晴らしい心を持った
息子さんと時を同じく過ごせていたなんて」
「どこまでも、充実した生活を
送れていたんだろう。って。」
トキオ:「いや、母とは、あまり一緒にいた記憶がないんです。」
美知恵:「あら、湿っぽい話になってしまいましたね。」
・・・・
「彼女とは、上手くいってるの?」
トキオ:おれは、少しばかり、意表を突かれた。
まさか、ここで、彼女の話題が出るなんて
「いや、まだ、告白さえしてないんです。」
美知恵:「だめじゃない。」
トキオ:「いや、おれ、まだ、半人前だし。」
美知恵:「ばかね、そんなこと言ってたら、
いつまで経っても、
彼女なんて出来ないわよ。」
「人なんて、いつまでも、半人前なの」
「私だって、いまだに半人前。」
「みんな、そうなのよ。
だから、助け合って生きてるの。」
「人の気持ちなんて、
永遠じゃないから。」
「特に、男女の気持ちなんて、
はかないもの」
「彼女だって、半人前なの。」
「結論はね、いっしょに
成長していけばいいのよ。」
トキオ:口には、しなかったが、心のなかで
「なるほど!」
っと思った。
「そっか、人は、
永遠に半人前なんですね。」
「ぼくは、少し、
思い上がっていたのかも知れません。」
美知恵:「分かっていただけたようですね。」
「ところで・・・・。」
「ひとつ、聞いてもいいかしら?」
トキオ:「なんですか?」
美知恵:「わたしは、もう少し
生きていてもいいのかしら?」
「わたしに、その価値は
あるのでしょうか?」
トキオ:僕は、その突拍子もない台詞に対して
なんて答えたらいいか分からなかったが
言葉が出るより先に僕は、
彼女の小さな手を、握りしめていた。
トキオ:「この手を通じて、
おれの気持ちが伝わってますか?」
美智恵:「え?」
トキオ:「言葉にしなくてもいいと思うんです。」
「いや、言葉にしない方が
僕の正直な気持ちは
伝わると思うんです。」
「頭で、考えないでください。」
「そして、それを、
受け止めてください。」
「それが、これからの、
生きる活力になるはずです。」
美知恵:「ありがとう。」
ナレ:彼女は、心の底から、
そのように感じていた。
そして、ポケットに
持っていた白い粉の入った瓶を
海へ投げ捨てた・・・・。
美知恵:「彼を、引き取って良かったわ・・・・。」
トキオ:そして、おれも、彼女の手を通じて
その気持ちを受け止めていた・・・・。
あとがき
書き始めたときは、これほど長く語るつもりはありませんでした。
当初は、読み終えた小説があって
言葉を変えて、簡単に紹介したかっただけで
何と言うか、いま、社会問題になっている
認知症について
ひとつのヒントになるのではないかと思い、
その小説の一幕を引用しながら
みなさんの活力になればと思って
書き始めたのですが、
あれよ、あれよ、と言う間に
手前勝手に創作してしまい
ここまで書き綴ってしまいました。
ただ、読み終えて思ったのが
記憶が消えていくのなら、
新しく創ればよいということ。
そして、人は、だれかの支えなくては
生きていけないということ。
そして、時には、人の気持ちというものは
言葉では、伝えきれないものであるということ
そんなことを感じたまでです。
そのことを伝えたくて
ここに、ひとつ
気持ちを残していきました。
これを、預念と呼べばいいのかな?