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小学生の私に寄り添ってくれた友達『放浪息子』

小学4年生の時、父親の部屋の本棚から志村貴子さんの『放浪息子』を見つけた。

小説や漫画や画集など、何でも私によく見せてきた父親が唯一私から遠ざけていたのが青年マンガだった。まだ私が幼かったからだろう。

ただ、制限されると気になってしまうのが人間の性分。学校から帰り、両親が家にいないタイミングで本棚の後ろに隠された青年マンガを引っ張り出し、こっそり読んでいた。
数ある青年マンガの中で『放浪息子』が気になったのは、単純に絵が好きだったからだ。内容も知らないまま、毎日少しずつ読み進めた。

1巻で同い年だった登場人物たちは、巻が進むにつれて私がまだ知らない世界に旅立っていく。徐々に絡み合っていく複雑な感情を当時はすべて理解することはできなかったが、序盤の小学生回を読んで気持ちがスッとなった瞬間は今でも覚えている。

私は、物心がついた時から所謂”男の子の遊び”が好きだった。カードゲームをやり、野球やサッカーを楽しみ、青色や野球帽子が好きでスカートなんて履いたことがなかった。休日に見るテレビは戦隊モノと仮面ライダー。なので、遊ぶ相手も男の子ばかりだった。

運動神経が良かったので、男の子に混ざっても引けをとらずに遊べた。気になるなと思っていた子は女の子だった。あの頃は「男の子になりたい」という思いもあったような気がする。

小学校に入学した時、両親がランドセルの色を選ばせてくれた。黒の方が好きだったけど、5年後のことを考えて赤にした。通学帽子はハット型が嫌だったので、男の子用とされていた野球帽子型にした。ランドセルは女の子用なのに帽子と服装は男の子用。チグハグな組み合わせに、入学当初はひとつ上の上級生から「オカマ」とからかわれることも少しあった。私の方がドッジボールも野球も強かったので力でねじ伏せた。

小学校高学年になり、周りの同性が好きな男の子や芸能人の話で持ちきりになる。私はまったく異性に惹かれず、自分に少し疑問と迷いを持ち始めていた。

低学年までは引けをとらない運動神経で異性とも対等に遊べたけれど、体格や体力に差が出始め、ドッジボールも野球もまったく敵わなくなり、自然と同性と遊ぶようになったのもこの頃だった。どちらにも馴染めない、中途半端な状態だった。「自分って中途半端だな」と思ったし、「自分は一体何なんだろう」とも思った。

周りに同じような子はいなかった(ように思っていた)し、「同性に惹かれる」ということは何だかいけないことな気がして誰にも言えなかった。あの頃はネットもなくて、学校のコミュニティだけがすべてだったから、周りにいなければそれまでだった。

みんな異性が好きなのに、私は同性に惹かれる。
みんな可愛い服や髪型が好きなのに、私は嫌い。

『放浪息子』はそんな状態の時にたまたま読んだ。
男の子になりたい高槻くんと呼ばれる女の子が出てきた時に、初めて自分と同じ気持ちの人に出会えたと思った。

「こういう人はいるんだ。自分は得体のしれない人間じゃない」

漫画の中の登場人物だったが、とても大切な友達に出会えたような気分だった。あの瞬間、得体のしれない状態で浮遊していた自分がしっかり形作られた気がした。「同じような思いをしている人がいる」この事実が、どれだけ

そこから大学生になるまでも人に言えずに閉塞感を感じていたが、大学生になってSNSで遠くの知らない人と繋がれるようになり、今度は生きている人間の中で同じ人たちに出会えた。コミュニティも増え、人間関係に関して「最悪切れてもいい」と思えるようになってから自分のことを人に話せるようになった。

大人になり、感情が成熟していくにつれ自分という人間を受け入れられるようになっていったが、ふわふわとしていた小学生の私を形作ってくれたのは、間違いなく『放浪息子』だった。

一人暮らしをはじめてからふと読み返したくなり、全巻買った。歳を重ねるたびに、琴線に触れる箇所が変わる。
二鳥くんや高槻さんは今、どんな大人になっているだろうか。彼らとお酒を呑みながら、昔話をしたかった。

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