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⭐幻想(観念)の多次元性について〈共同幻想論を読んだ頃 覚書 1〉



 吉本隆明の共同幻想論を読んだ頃のことを最近なぜか時々思い出す。1980年頃のこと。ちょうど大学を卒業した頃か、あることがきっかけで就職はしないと決めて、三年は本を読めるだけ読むとわけのわからない無方針を立て、時間の作れる家庭教師のアルバイトをしながら、大学時代に司法試験のためと、親からせしめた書籍代(数十万)で手当たり次第に自分の好きな書籍に埋もれて、暮らしていた頃、吉本隆明というその頃の左翼のカリスマ思想家に出会ったのだ。この詩人で、思想家の本は、マチウ書試論から読んで、一緒に新訳聖書を読んだ。その頃は数冊平行して読むのが普通で、思想、批評関係は、小林秀雄、江藤淳、磯田光一、売り出した頃の柄谷行人、海外はサルトル、ミンコフスキー、ラカン、ロランバルト、小説は漱石、芥川、太宰、三島と嘗めて、ドストエフスキーのカラマゾフまで読み終えて、ソルジェニーツインの収容所群島を読み終えた頃にはもう5年が過ぎようとしていたと思う。その間に中上健次や村上春樹に出会い、大物では、資本論もヘーゲルの大、小論理学、自然哲学、歴史哲学、フッサールの現象学の理念、ハイデッガーの存在と時間、フーコーの臨床医学の誕生も、読み終えていたと思う。大学の時まではたまり場だったぼくの部屋は、後の妻になる女性と一緒に暮らしはじめて、めっきり訪れる人がいなくなり、高校時代からの友人一人だけになっていた。彼(F)は、ぼくを農本主義的ファシスト系のアナーキストと勝手に呼びつつ、自らは本物の左翼とぼくに打ち明けた珍しい男で、よくぼくの部屋を訪れていた、ぼくの生涯のポン友だった。もちろん彼も本に埋もれて暮らしていて、ぼくがあまり読まない左翼文献をたまに持ってきては、読んでみたらと声に出さずに、そこら辺になげておいて、代わりにぼくの読んでる吉本や埴谷雄高の本を黙って手にとって、ぼくの部屋のすみで壁にもたれ、勝手にネスカフェゴールドブレンドをサラサラとカップに入れて、飲みながら、夜通し二人で黙って読んでいたのが、懐かしい。夜明け前にはらがへるので、近くの多摩川べりのうどんの自動販売機のところで、二人で黙って食べた後、それぞれの下宿に帰るのが常だった。ぼくらが変なのは、互いに彼女がいつつ、
交換日誌を一日おきに書いて、双方の彼女に読まれて、こいつら度しがたいやつらだと、うわさされていたこともそうだけれど、ふたりとも真面目にドロップアウトしていたことではなかったろうか?たまたま二人の彼女は看護婦さんで、結構な稼ぎがあったため、ちょっと楽をしていたのかもしれない。それでもまじめなFくんは、26の時に突然就職した。彼の彼女が結婚したいと言ったからだ。もちろんその余波はぼくにもやってきて、ぼくは、ぼくの無方針で、吉祥寺の新しい劇場の専属ライターの肩書きで、その後本職になる遺跡を掘りながら、周囲の知人から君みたいなアナーキストにはついていけないや、と誹謗されつつも、これ、ちょっとカッコいいじゃん、みたいないい気な若造であったと思う。

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