「好きを詰めこんだ!」として、「誰のために作ってんの?」という葛藤
音楽が好きなのですが、特にロックが好きです。
そしてロックのなかでも、ハードロックが好きです。
これまでいろいろなバンドのライブに参戦してきましたが、いつもどことなくファンのタイプがはっきりしているような感じがします。
年齢。
性別。
外見。
志向。
ちなみに自分の好きな数バンドのファン層は、大体「男性が多め、年齢は20~40代後半、黒い服の人が多い」です。
逆に自分の好きなバンドの特徴は、「歌詞への共感というよりも、音の暴力が強い(歌唱力や演奏力といったスキル面が強い)」が多いかもしれません。
生産者と消費者の嗜好が一致しているから、‟刺さる”ものが生まれる(よく「ターゲット」「ペルソナ」と言われる、あれです)。
ところで、先日あるバンドのライブに参戦したのですが、MCで「当時は音楽なんかするつもりもなくて、自分達が好きなものをただひたすら作り続けて、気づけばここまで来ました」と話していました。
でも、作る人なら一度はぶつかる壁があるはず。
‟好きなもの”が他人に刺さる訳ではない
‟好きなもの”って非常に難しい。
なぜなら「好き」という曖昧な表現には、見る相手に「ハマる」か「ハマらない」かが考慮されていないから。
毎度求人広告を作って初稿を提出すると、先輩からいつも言われることがあります。
「これって誰をターゲットにしてるの?」
「ターゲットはどこで何をしている人だと思う?」
「この訴求で見てくれるかな」
うるせえ~!俺の作りたいように作らせろ~~~~!
とは言い返せません。
広告とは、見られて行動に移すきっかけを与えるために存在するもの。求人を見た人が「応募しよう」と思い、最後に「内定出た!」となるまでが役目なのです。
ただ、これは広告に限らない話だとも思います。
自己満で創作をしたとしても、そこには創作物を見る‟自分”というターゲットがいます。だから自分の好きな展開にするし、自分の好きなキャラを作る。そして自分で見て「最高!」と気分が上がります。
だからといってそのまま外に出したとしても、他者が必ずしも同じ考えを持っているかは分かりません。たまには作ったものが万人にウケることも発生しますが、良くも悪くもギャンブルです。
ブランドが確立さえしてしまえば、ある程度ファンが自然と付いてきてくれるので、比較的自由に‟好きなもの”に走れるかもしれません。ですが、ブランドが確立されていない人間がぱっと作品を出したところで、大コケする可能性だって十分あります。
自分もギャンブル好きですが、いい歳なのでそろそろ理想と現実のギャップに風邪を引きたくないのです。泣
好きなもの、誰に届けたい?
実は、近々友達と音楽活動をやることになりました。自分もまさか音楽の道復活に驚きつつも、折角であればとことん向き合いたい気持ちでいっぱいです。
だから、友達が「あれしたい!」「これしたい!」という話に対し、基本「ええやん」と返すイエスマンでも、必ず返す言葉があります。
「これ、どんな人に見てもらいたい?」
「これってテーマとかなんかある?」
根本で「人を楽しませたい」とあっても、「その‟人”に、全人類70億人は含まれるのか」という話です。
そして切ない現実として、全人類に刺さるものなんて存在しません。
逆に必ずどこかに刺さる人だっている。友達のやりたいことを少しでも大きくするために、自分は‟それ”を見つけたい。
好きだったら、どんどんやろう。
でも、好きならとことん考えよう。
‟独りよがり”にならず、見る人を考慮をしよう。
これが今の自分の作ることへのスタンスです。
見てほしい人が「好きだ」と言ってくれる「好き」を作る
自分もクリエイティブを本業にしなければ、ここまで考えられませんでした。
今だから分かるのですが、学生時代好き勝手に好きなものを作って投稿しても、‟独りよがり”で見向きされなかったと振り返ります。
今でも全然‟独りよがり”な作品を作ることもありますが、以前と比べるとゼロから捻りだしたものは少なくなったかもしれません。少なくとも、今の流行や好きなものといったアイデアを叩きにオリジナルを作うようになりました。
結局好きを貫いてウケるか、好きといってもらえるようにウケに行くか、‟卵・ニワトリ”の話ですが、自分のような凡人は見てほしい人の「好き」と自分の「好き」を合わせに行くくらいで、ようやく土俵に立てる人間です。
自分の志向を蔑ろにせず、好みの形を柔軟に変える。
それが仕事で得た、作ることへの向き合い方ということです。
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