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純粋な「唯物論」と死後の生命への信頼とが、完全に両立可能であると考える理由

純粋な「唯物論」と死後の生命への信頼とはまったく矛盾するものではなく、むしろある段階までは(※1)「唯物論」を徹底した方が目を曇らせず迷いに陥らずにすむのではないかとも考えている。

誤解を招かないように言っておくと、ここで私が想定する「物質」というのは、通常私たちが考える周期表上の元素で構成された物質だけではなく、「感情」と「思考」とを含む。フランスの哲学者ベルクソンの「イマージュ」=「物質」一元論はここに立脚する。

少なくとも、科学的な視点とは対象をモノとしてとらえることであり、ある程度スピリチュアルな領域においてもそれは通用すると思う。

生活実感から言って、人間は「目に見える世界」と「目に見えず手で触れることもできない世界」を含む「多重環世界」に住む多重動物だと考える方が自然だ。

少なくともそうでないと「若きウェルテルの悩み」を読んで自殺する青年の生物学的に不可解な言動は説明できない。紙面の上にのたうち回る記号に没入できる人間は、「意味」の次元における身体を発達させ、時には物理的身体を犠牲にしてでも「意味次元」の身体の衝動に従う。

神智学ではこの「意味次元」のうち、感情反応を引き起こす部分を「アストラル界」と呼び、物質よりも精妙な波動を持つ「アストラル質量」で構成された次元として説明される。

文学が感情を想起させるとき、この「アストラル体」の要素が感応していると考える。マクルーハンが「メディアはマッサージである」という言葉で、意味世界における身体論を唱えたとき、それは私たちの感情そのものが特殊な物質でできた身体を構成していることを暗示している。なお、ヒュームが言った「知覚の束」としての人間像もこれを想起させる。
その意味で、感情は物質である。ヘーゲルは仏陀の言う「マーラ」の世界にとらわれないためにあまりにもここを軽視しすぎたが、ゲーテのアストラル感覚の豊饒さでもってバランスをとるべきだったようにも感じる。

また、ナポレオン・ヒルが言ったように※2、「思考は物体である(Thoughts are things)」。「思考は目的の明確さ、粘り強さ、そして富や他の物質的なものに変えたいという燃えるような願望と混ざり合ったときに、強力な "物体 "となる」。この事実は数多くの経済的成功者が口をそろえて述べるところだ。また、フィヒテやシェリングなどのドイツ観念論哲学を中心とした一流の哲学者たちが自由自在に「概念」を物質的に操作してある種の化学実験のような形で議論を展開する様子を見ると、そうした思考物質が実際に存在することに疑いようはない。思考を物質としてとらえられていないのは、ただ単に訓練が足りないということなのかもしれない。

感情も思考も物質であり、よく観察すると、それは物理的な肉体とはまったく独立して存在しうることがわかる。

通常、内臓状態をはじめとする物理的な刺激から感情や思考が随伴することにあまりにも慣れすぎているがゆえに、私たちはあたかも物理的な刺激がなくなれば感情や思考もなくなると錯角しがちだが、ひとたびサイケデリック物質で物理的な身体を特殊な形で麻痺させると、私たちの感情や思考が物理的な次元とは全く独立して存在していることがはっきりとわかる。これは「下から」の刺激に対する受動的反応を閉ざす方法だが、一方で「上から」の指令を出すことで能動的反応を引き出す方法もある。シュタイナーやユングが「能動的想像」を重要視した理由もここにある。

つまり、私たち人間は少なくとも「物理的身体」に加えて、感情に反応するアストラル質量で構成される「アストラル体」、思考に反応するメンタル質量で構成される「メンタル体」の二つの目に見えない身体を持ち、合計3つの身体がオーバーラップした形で存在する多重生命体(グルジェフ流に言うと「三脳生物」※3)である。このイメージは、日本が生み出した独自の思想家・大森荘蔵の「重ね描き」としての世界像とも符合する。

しかし私たちは物理的身体については自覚的であっても(それすらも怪しいが)、アストラル体とメンタル体については全く無知である。しかしそれはれっきとした身体であり、目には見えなくとも確かに「物質」で構成されているのだ。

だから私たちがまず追求すべきのは、この三つの身体のすべてを健全に保つための「健康学」なのであり、それ以上でもそれ以下でもない。古代ギリシアの哲人たちが「魂の健康」を主張したのもうなずける。

上記考察の当然の帰結として、物理的身体が滅びても、残り二つの身体は残っているため、存在の次元が移行するだけで大した変化は起きない。だが、ある種の「霊肉二元論」にとらわれた人は、「死んだ瞬間に人間は純粋な意識体になる」と思い込み、あたかも死んだらすべてから解放されるか、もしくは永遠の地獄の業火に焼き尽くされるかのように錯覚してしまう。

宗教を頭でっかちにとらえる人や、スピリチュアルを情報として消費している人は、魂のこの「身体的」「物質的」な要素をあまりにも軽視し、煙にまいたような議論をする傾向があるが、科学的態度としては、この段階までは唯物論を貫いた方が真実に近いと思うし、純粋に修行的な観点から言っても有用だと思う。

欲望にとらわれたとき、それは私のアストラル身体の質量の低層部分が感応しているにすぎないのだ。その欲望を「物質」として観察対象においたとき、「私」はその欲望から引き離され、欲望と合一化していた状態から解放される。

少なくともそう考えたほうが、人生はシンプルで生きやすい。

※1: 神智学で言う「メンタル次元」までの話。これ以上は身体なしで存在できる領域に入るので、この意味での「唯物論」が通用しなくなると思う。

※2: 元ネタは19世紀中葉のニューソート思想家プレンティス・マルフォードの言葉だそう。

※3:同じく神智学の影響を受けたグルジェフはこれを、動作・感情・思考の三つのセンターを持つ「三脳生物」と表現した。

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