宇宙という機織り機は今日も私と時空間を織り続ける
(以下はすべて、主観的な妄想であり、一つの物語です)
どこかの誰かが唱えた「巨大キノコ仮説」によれば、この宇宙はキノコであり、私という個性はその子実体に過ぎない。
キノコの菌糸は、高度な知性としての本能に従って不断に成長し絡み合う存在であり、もう少しおしゃれな言い方をすれば、巨大なミシンによって織りなされ壮麗なペルシア絨毯を編み続ける一本の刺繍糸である。
自己を菌糸にまで分解してみると、今日も規則的に宇宙を織りなし続ける機織り機の音が聞こえてくる。
宇宙に何か法則があるとしたら、この機織り機の動き方をおいてほかにあるだろうか?
過去・現在・未来の「時空間」を織りなすのとまったく同じ方法で、宇宙という機織り機は「私」という刺繍を織る。
キチキチと刻むその機械的な規則に耳を傾けているうちに、いつの間にか「私」は「ここ」にいて、「あなた」と今日一日が始まる。
それは相補的に強化しあう自己暗示であり、互いが互いを編みこもうとするこの流れに抗おうとしても、怒涛のような奔流に押し流されるのみだ。力弱き菌糸は運命に従うしかない。
それは複雑に向かい合わされた鏡同士の無限の反射、向かい合うマイクとスピーカーの無限のハウリングであり、反射する光、そして音自身には、自己省察の余地は残されていない。
だが現実の裂け目を覗き込んだとき、私は幾千億の目をそこに見る。どこかしこにも、目、目、目。千年前の目、一秒前の目、一万年後の目。すべてが私を覗き込む。畏怖とともに私は知る、暗闇に光るその無数の目こそが私と時空間を織りなす糸であり、視神経であり、この世界のすべてなのだと。
自己を菌糸にまで分解したとき、「私」は「あなた」であり「宇宙」であるが、それは単なる一個のモノとしての一体感ではない。
「私」を織りなす糸が、「あなた」と「宇宙」、「過去」と「未来」を織りしているのと同じ糸・同じ機織り機で織られているがゆえの一体感である。それは同時にすべての始まりと終わりを内包している。
機織り機は私という刺繍の中に、全人類の模様を編みこむ。
機織り機は現在という刺繍の中に、過去と未来のすべての模様を編みこむ。
それほど機織り機はフラクタルを愛する。
菌糸はやがて気づくに至る、機織り機は自分以外の何者かではなく、自分自身であったという事実に。
糸は編み、編まれるがゆえに糸なのであり、糸は機織り機でもあるのだ。
つまり、菌糸はキノコなのである。