Gutsヒロのスイーツ・ストーリー:感謝の花を咲かせて
こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のnoteに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。
今回はのnoteは過去に書いた文章です。投稿企画の「#挑戦してよかった」に向けた私のストーリーです。私の過去のストーリーを読んで、これから挑戦する方や挑戦を考えている人の後押しになれるよう思いを込めて作ったnoteです。知識や技術はそれほど大切ではありません。大切なことは「心」です。人が持つ情熱は、不可能を可能にする力があります。
これから私の過去のお話もしますが、私は料理人やパティシエとして本当にダメな人間でした。人に認めてもらえず、相手にされず、ダメだった日々だけど、「お菓子作りが大好き」な自分を認めてあげれるのは自分しかいませんでした。でも、お菓子を通して本当の意味でお客様を幸せにしたい。そう思い、決断した29歳での調理師専門学校の入学でした。プライドもこれまでのことは全部ゼロにして同じく入学した大勢の18歳のクラスメイト達と同じ立場として初心の心での挑戦です。
「29歳で調理師専門学校の入学なんて。」
と、見下す人もいました。でも、私がパティシエとして生きていくチャンスはこれしかありませんでした。正しく私の人生のラストチャンスでした。
それでは私の人生が変わった挑戦へのストーリーをご覧ください!
1.困難への挑戦
フランス料理と洋食の過酷な仕事で2回目の精神科の入院をして統合失調症と診断され希望も夢もない、めちゃくちゃな20代でした。
そして、私は29歳になって20代最後の決心をします。それは調理師専門学校への入学。
お菓子作りはフランス料理の仕事の時にもやらせて頂いていました。アシェットデセールという皿盛りデザートのことですが、私はお菓子の見込みがあってデザートに関してはよく任されていました。しかし、シェフからはレシピを頂けず「自分で考えてやれ」と言われてやっていました。あの頃はネットにレシピや動画はなかった頃で主に本を見て勉強をしました。わからないお菓子は手探りでレシピを作っていました。
中でもロールケーキのストーリーでは、小麦粉や卵を10gずつ増やしたり減らしたり調整して1日3回以上、仕事が終わって家に帰ってから夜中に試作して焼いて練習をしました。もちろん生クリームを泡立てて塗って巻くのですがどうしても生地にヒビが入ったり、割れてしまったりしました。オーナーシェフに聞いてもコツなどは教えてもらえず、とあるケーキ屋さんのロールケーキのように作れと言われました。そこのケーキ屋さんと自分の作るロールケーキを比べて何が悪いのか調べました。試作をする度にそこのケーキ屋さんのロールケーキを買うのですが週3回は最低通ってました。そして、そんな生活が2ヶ月も経った頃、そこのお菓子屋さんにいつものようにロールケーキを買おうとしたらシェフらしき人が裏からやってきて私に話しかけてきました。
「何で毎週何度もうちに来てロールケーキを買うんですか?」
と。なんて答えればいいのか困りましたが、私は正直に言いました。
「フランス料理のお店で働いていてロールケーキを作るように指示されたのですが作れないので、自分の作ったロールケーキとこちらのお店のロールケーキを比べて勉強させて頂いております。」
そのシェフは真剣に話を聞いてくれて「ちょっと待っていなさい」と言い、再び現れたシェフの手には大量のお菓子の本がありました。そして、そのシェフは、
「これをあなたに貸します。返すのはいつでもいいですよ」
その本は、値段の高い専門書で見たこともないすごい本ばかりだった。私は、申し訳なさもありましたが、とても感謝して持ち帰って借りた本を全て読み、全てコピーしました。そして、その甲斐もあってロールケーキが巻けるようになりました。
2.シェフからの試練
私は貸して頂いた本を見て、スイーツの世界の奥深さを知って自分の知識や経験が浅いことを痛感しました。それから「趣味」から「仕事」の姿勢にお菓子作りをシフトチェンジしました。ただ一生懸命やっているだけではダメで本当にプロの意識というものを実践しました。
しかし、それはフランス料理をやりながら、お菓子も覚えるというのは人間のキャパシティの範疇を超えることでもありました。「フランス料理」「洋菓子」両立するのは体力的にも精神的にも、そして時間、金銭面でも苦労しました。それでも半年ぐらい頑張って浅く広く覚えていってシェフの要望にはそこそこ応えれることができるようになりました。
しかし、期待に応えると更に要求されるレベルも当然上がってきます。ある日、本やネットにもないケーキを要求されました。それは「シブースト」というお菓子。オーナーシェフにレシピを求めました。しかし、
「そのぐらい自分で調べてやれ」
と、相手にしてくれなかった。オーナーシェフの奥さんがケーキ屋に置いてあるかもしれないから探すように言われた。地元とその周辺の町のケーキ屋20軒は回った。当然、お店に入ったからには義理でケーキを買った。私は最終手段として、ネットで過去にシブーストを出したと記録があった店舗に直談判した。作ってもらえませんか?と。言った途端、店主の人にめちゃくちゃ怒られました。冷やかしに見られたのかもしれないし、図々しいのも理解してた。私は謝罪して後にした。
次の日にシェフに事情を言ってシブーストは作れないと言いました。シェフには、
「お前は努力が足りないんだ!」
と言われ、100km先の街のケーキ屋に行ってシブーストを探して食べてこい、出来ないならお菓子はもう作らせないと言われました。私は、もう貯金も所持金もほぼ尽きていました。もう休日はあってないようなことが1年半続いていた。
しかし、心も体もボロボロだったけども、仕事を続けるためにはシブーストを食べる使命を果たさないといけなかった。私は遠い街に向かった。
しかし、ひどいプレッシャーの状態で、道中で目眩と動悸を起こして汗が止まらなくなりました。頭も真っ白になって車の運転ができなくなりました。道路の端でそのまま落ち着くまで耐え続けました。落ち着いた頃には夕方になっていました。私はシブーストを探すことすらできず帰宅することになります。無力な自分を責め続けました。そして、明日シェフになんて言えばいいのか?なんて言われるのか恐怖でその日の夜は一睡もできなかった。朝を迎えてしまって体調と精神状態がとても悪かった。何より、シェフに会うのが怖かったし合わす顔もなかった。
その日、初めてお店を休んだ。
電話でめちゃくちゃ怒られた。急に休んで迷惑かけているのが理解しているのか、今すぐ来いと言われた。私は泣きながら懇願するように休みをもらえるよう必死に訴えてようやく休みを貰えた。
しかし、やっと地元でトップクラスで人気のある店で働けるチャンスを棒に振るってしまったことに後悔と情けなさにもう死んでしまいたいと思った。その間にそんな状況で狂った私を見て、母が気を回して精神科の病院に問い合わせてくれて早急に病院に来るよう言われた。廃人のようになった私は働くことをドクターストップされた。
しかし、拒んだ。
今、仕事を本当に辞めてしまったら何もかも失うと恐怖したからだ。私はそれを言った瞬間、病院スタッフの5人に抱えられ入院病棟の鍵付き部屋に入れられた。
これが2度目の精神科病院の入院の内容です。今ではシブーストというお菓子は作り方もバリエーションもあるのは知っていますし、オリジナルでレシピも書けるぐらいになっていますが、シブーストって聞くと今でもトラウマで恐怖を覚えます。
3.未来への一歩
しかし、このフランス料理店のシェフとの経験や、精神科病院の入院をした事が、私の人生において後々の将来、お菓子のレシピが書けるまで成長ができたのは、どん底まで落ちた経験をしたから「正しい生き方」を見直すことができたからでした。そして、ドン底からパティシエの道へ歩む人生へと繋ぐことができたのは29歳で調理師専門学校の製菓コースを入学したからでした。私の未熟ながらも頑張ってきたことや精神疾患になりながらも必死に続けてきてボロボロでも報われたのは調理師専門学校の生活を送ったからこそでした。
しかし、学校に行くためのお金や生活の問題もありました。それを解決したのは私の努力を間近で見ていた家族と親戚、そして病院が全面的サポートをしてくれた事でした。私は絶対に圧倒的な首席で卒業する事を決意した。それは沢山の人から与えられたチャンスに対して、希望も夢もなかった私に出来た、唯一の強いケジメでした。私は、持っている全てを調理師専門学校に情熱を注ぎました。
そして、私は2年間の学校生活は無遅刻無欠席、学科試験オール1発合格、実技試験6回中4回1発クリア、卒業制作展の1年生の時と、2年生ともに1位という歴代の生徒の群を越える成果を得て首席で卒業し、滅多に出すことのないといわれてた「学校長賞」を頂いて学校生活を終える。
4.勇気と情熱の華
しかし、このような栄光のある卒業をできたのはまぐれに近かったと思います。何もできなかった私が栄誉ある「学校長賞」を頂いて卒業ができたのは奇跡に近いものがありました。
私の当時の学校生活の話をしましょう。私は毎朝5時に起きて片道1時間半の道のりを車の運転で通学し、朝7時半頃に学校たどり着く事をしていました。授業が始まるのは9時からです。何故早く行くかというと実技の授業は席が先着順だったからです。私はみんなより1時間も早く待機し、私は2年間の学校生活で全て1番良い席で授業を受けました。講師の間近で見る技術や、すぐに質問できる環境は私の成長に大きく役立つことができました。
プライベートも自分の遊びの時間やお金は一切ありませんでした。常に勉強し、料理をし、制作展の作戦や構成をいつも考えていました。実技の試験の練習は1番やってる子の10倍、20倍はやっていたと思います。学科の試験の時期は教科書とノートを丸暗記していました。
そんな私はクラスメイトから異質な存在でした。「本気でやっている人」として扱いづらさもあったでしょうけど、クラスメイトから理解して頂いていましたし、みんなから頼られるお兄さん的存在でもありました。でも、本当は逆に私がクラスメイトのみんなに支えられていたと思っています。小学生の頃のようにイジメられていたら私の細い神経の糸は簡単にプッツリ切れていた事でしょう。18歳と29歳では歳が離れていたにも関わらず友人のように接してくれたことは本当に感謝したいと思っています。今現在も、関係が繋がっている子もいますし、学校生活で得られたものはとても貴重なことでした。また厳しい学校生活の中で、校長先生や講師の先生もコンプレックスの塊の私がどうにか学校にとどまって卒業ができるよう配慮も沢山してくれたと思います。本当に大勢の人に支えられて卒業まで居られたのだと思います
私は大勢の人に支えられてもらいながらも、心の隅で、もしもこの学校生活で料理人のセンスがなくて見込みがないのなら料理人もパティシエも完全に諦めようと思っていました。まさしくラストチャンスでした。未知の世界に入り精神的にも体力的にも限界を超えてやりました。休みの日曜日は回復をするため15時間は爆睡してました。また精神科の病院は私の学校生活を応援してくれて、とてもサポートしてくれたのもとても大きかったです。厳しい学校生活に耐えれたのは心のケアがあったからでした。
5.感謝の花を咲かせた日
長かった2年間でした。しかし勇往邁進で走った2年間だから早かったようにも思います。2年生の最後の大仕事の卒業制作展は応援してくれた人達に、
「ここまで出来るようになったよ!」
と伝えたい作品にしようと構成を練って作成期間はなんと7ヶ月!もちろん学校生活もある中、寝る間を惜しんで作り続けました。大晦日も正月もラストスパートの時期だったためTVは一切見ていません。一輪の花を作るのに2時間かかるものを何十個も作り、納得のいくものだけを採用しました。ここまで情熱的に真摯に取り組めたのは感謝でいっぱいだからです。私の卒業制作展のタイトルは
「感謝を込めて」
1番私を支えて助けてくれた、母の大好きなカサブランカを沢山咲かせたシュガークラフト。そして、技術を要するその他のケーキです。
制作展には家族、親戚、友人、病院スタッフなどたくさんの人が見にきてくれました。制作展は来場者の投票制になっていて集計が終わるのが夕方5時。
日本料理、中華料理、フランス料理の部門の発表がされ、ようやく最後に、花形の洋菓子部門の発表です。
3位、2位と発表され、そしてその時が来ます!
「第1位は!」
名前を呼ばれた私は立ち上がり盛大な拍手を浴び、共に戦った仲間達、そして共に歩んだ仲間達にお辞儀をしました。そして校長先生のもとに歩み賞を頂きました。ここまで本当に本当に頑張って諦めずに続けてよかったと思えた瞬間でした。
6.成長の卒業、障害を超えた勝利の物語
そして、私は卒業式の祭壇の前にいます。今、校長先生から最高峰の「学校長賞」をもらう瞬間です。私は29歳でありながらも調理師専門学校の製菓コースの入学を選択し、決意した圧倒的な首席で卒業を誓ったあの日。そして・・・
私は今、最高の形でパティシエになりました。
学校を卒業した私はもうお菓子を調べてお店を回ったりレシピがわからないで練習して失敗するなど苦労することはなくなり、あらゆるお菓子にも対応できるようになってレシピも自由自在に描くことができるようになりました。
学校生活は確かに大変で精神的負担もありました。
しかし、あの挑戦をする決意をしたから大きなチャレンジすることができて、不屈の意志で進み続けた私は2年間の学校生活を全うすることができました。それは私に想像以上の勇気と自信を与え私という人間を大きく成長させて頂きました。
弱かった私、強くなった私、これらの経験から私は自分自身に率直に向き合えるようになりました。精神疾患を持ちながら学校を最高の形で卒業できたのは可能性を実現する事を証明したと思います。
そしてパティシエとして新たな夢に歩んで行く私は新たな使命を背負い歩み続けます。これは障害を乗り越えた瞬間かもしれません。感謝の気持ちを胸に新たな一歩を踏み出します。
Gutsヒロ