クロウリー×アジラフェル人間AU。
「秋桜を見に行こう」
クロウリーからメッセージが届いたのは、アジラフェルが徹夜二日間で、手描きアニメーション作品を納品した日の夕暮れだった。
最初に、アンソニー・J・クロウリー・デイモンを見た瞬間、「きっとかなり聡明で闇の黒薔薇のように美しい人だけれど、こういう人に溺れてしまうと、気が狂うんだろうな」と感じた。
そして、「本気で怒らせると、恐ろしい人なのだろう」と。
だが実際に言葉を重ねていくうちに、畏怖のベールに覆われていた彼の素直で真摯な思いやりの溢れる言動や、サングラスの下に隠されている少年のように照れ笑う愛嬌のある表情が、アジラフェルの緊張で強張っていた肩の力を取り去ってくれたのだ。
英国にいた頃は、幼い頃からずっと家庭教師に指導されていたし、学校という組織を全く知らないアジラフェルにとって、同い弟子の知り合いと出会うことは、非常に新鮮かつセンセーショナル。そして初めての体験だった。
東京は下目黒の川沿いにあるマンション、秋晴れの美しい東からの朝日と少しだけ冷たい空気がベランダの薔薇鉢を撫でている。
いつもの徹夜作業をやっと終え、床暖房のフローリング上で布団も掛けず、スウェット上下のままで熟睡していたアジラフェルの頬を遠くからQueenの「WE WILL ROCK YOU.」が軽くリズミカルに叩いた。
「痛い……」
三日間、机に座り続けた弊害でいつもの腰痛が悲鳴を上げている。
この十年間、契約した死神のようにひっそりと、アジラフェルを虐げてきた忌まわしい痛覚だが、今回の入稿修羅場はスペシャルヘルパーがほぼ毎日、消化のいい料理を作ってくれたうえに、部屋の掃除もキッチンの整理整頓かつ除菌まで完璧に終えられている。
その、優秀な家政夫が自ら設定してくれた着信音。
「……はい……、おはよう、クロクリー……」
『おはようじゃねぇけどな、おはよう。一応はそろそろランチタイムなんだが、
お前はどうせ何も食ってないんだろう、アジラフェル?』
ずっとスマホを持たず、家電話で全ての肉声と対話してきたアジラフェルへ、
ほぼ半強制的にiPhoneを買わせたのはこの男だった。
「俺がプレゼントしてやるよ」と言われたが、普段から先述の通り専任ヘルパーとして無償に尽くされている身としては、逆に何かしら高価な贈り物をしなければならない立場だと断った。
そう応えた時のクロウリーは、見るからに失望していたのだが。
「ええ……、もうお昼? えっと……」
壁にかけられているバードクロックを見上げると、正午を少し過ぎている。
鳩は鳴かなかったのだろうか? いや、アジラフェルが気づかなかっただけだ。
『天気もいいし、昼飯を食って秋桜を見に行かないか? お前はすっかり運動不足だし、俺は深刻的なおまえ不足だ』
いつものハイテンポなトーク力に、思わず「なんだいそれ、フフフッ……」と笑声を溢すと、『ああ、いいな。お前の笑いはいつも良い』と薄い通信端末越しに少しだけハスキーな柔らかいテノールが響く。
「うん、じゃあこれから準備をするね。シャワーを浴びるから一時間後くらいかな」
『別にそのままでも良いんだぜ、お前の匂いはバニラキャラメルみたいだから』
「駄目だよ、二日間お風呂に入っていないから。すまないけど、待っていて」
『お前の部屋で待ってていいか?』
「うん、ありがとう。待っていて」
クロウリーがプレゼントしてくれた、天使の羽がモチーフになっているスマホカバーを閉じて、まだ半分ぼんやり夢に引きずられつつ、アジラフェルは浴室で二日分の汗を流す。
クロウリーはバスルームとランドリーエリアにアジラフェルがいる時間には絶対にリビングから続く引き戸を開けない。
そんな紳士の心遣いを無駄にしないよう、前もってバスタオルと下着、ランチタイムに相応しいワンピースとレギンスを準備しておく。
「俺と、結婚を前提に交際して欲しい」
アンソニー・J・クロウリー・デイモンから、そう告げられたのは出会ってからわずか三回目の夕方だった。初対面だった横浜での邂逅から一週間経過したかどうかの日付だと思う。
父親以外の男性とまともに会話をした事のないアジラフェルは、不運にも自作アニメ原稿からやっと解放された土曜日。
さて、何かしら軽いものでも……スターバックスのアメリカンマフィンでも食べて、久しぶりにバスタブでのんびりストレッチをしてから眠ろうと自室に溢れたゴミを処分していた時に、インターフォンが鳴った。
『ミス・アジラフェルに男性のお客様です。ミスター、アンソニー・クロウリー・デイモンと名乗っておられます』
女性専用の高級マンションでは、ホールに常任しているコンシェルジュから、
必ず来客時には一報が入る防犯システムだ。
「あっ、ゆ、友人です。お通しして下さい」
ルームフォンを切ってから、「あっ!」と慌てる。洗面所の鏡に映るアジラフェルのプラチナブロンドは、差し詰め白い鳩の巣。二日間、何も食べずで歯磨きも洗顔もしていない。おまけにノーブラで、着ているのはお気に入りの通販ショップにて購入したセール三千円のスウェット。
元々化粧を全くしない肌は、透き通るような瑞々しさに溢れ早春の薔薇のように美しく、唇はリップを塗ったかのように艶めいているが、家族でも無い他人の男性に対してこのまま対応するのは、英国貴族の娘として余りにも無礼だろう。
滅多に鳴らないインターフォンの意外な大きさに、アジラフェルの心臓が跳ねる。
「ああああああ!」
足元には食べ尽くした栄養補助食品の空き箱に、ドリンク剤の空瓶。
失敗したラフ画を破ろうとして失敗した紙吹雪が、折重なった埃と混ざって
フローリングに散乱していた。「足の踏み場も無い」とは、
まさに日本語の技だ。
「待って待って、出ます!」
再び鳴る機械音に焦って、マウスウォッシュでうがいをし、
布団代わりに敷いていたアクアブルーのハーフマントを纏って、狭い玄関へ辿り着く。
「はい! ごめんお待たせ!!」
オートロックの重いドアを外側へ押し開くと、「うおっと」とハスキーな、
それでいて優しい聞き慣れた声が落ちる。
「あれっ? クロウリー?」
「おう、悪かったな。アポも無しに」
季節限定商品だったモコモコのクロックスを素足に引っ掛け、アジラフェルが
声の主を探して廊下へ出ると、新鮮な花の香りに包まれ眼前が真っ赤に染まった。
「…………、クロウリー?」
「いる、俺はこの中にいる。悪い、一度受け取ってくれエンジェル」
謎なのだが、お互いの名前をまだ知らず同業者だとも認識していなかった
初対面から、クロウリーはアジラフェルを「エンジェル」と呼んでいた。
「綿飴みたいな頭だからかな」と、最近はすっかり慣れてしまったのだが。
ドアを塞いでいたのは、真紅の薔薇の花束、五十本……くらいだろうか。
アジラフェル自身、花を描く為によく有名なチェーン店にて購入するのだが、
何の種類であれ高値の薔薇の、こんなにも大きなブーケは手にした体験がない。
「…………、ねぇ、これもしかして『熱情』? あれ? でも
『ラブ』も『クリスチャン・ディオール』混ざってるような……」
「お前、よくわかるな。店を梯子したら種類がバラバラに
なっちまって。手渡す当日に五十本は用意できねぇって」
「だろうねぇ」
王室の直系貴族であるマイトレーヤ伯爵家、アジラフェルの実家はウェールズ地方
レクサスにある城だ。文字通り城、という十七世紀に建てられた英国建築
なのだが、中はかなりリニューアルされていて、最新型シャワートイレや
温風ヒーター付きの浴室もある。
ビジネスで多忙な父は、ロンドンに自分所有の不動産を幾つか所有していて、
正妻である母とは両親とは別居し、複数の愛人宅を転々としていた。
母はアジラフェルを置いて、自分の生家のあるコーンウォールへ引き篭り、
既に十年は顔を見ていない。
祖父母と乳母、数人の使用人と家庭教師に育てられたアジラフェルは、
古い庭を囲む庭園の薔薇をよく写生したものだ。
日本に来てからは、様々な海外の品種も覚えた。一番のお気に入りは「初恋」。
全体的に白が広がっていて、中心部分のみ上品なピンクに染まる
ロマンチックな四季咲きだった。
「ア、アジラフェル」
「うん?」
いつもスタイリッシュを絶対的なポリシーにしているクロウリーにしては珍しく、
長いダークレッドヘアは乱れているし、小さなタトゥーが彫られているこめかみから
汗が流れ滴っている。
「暑いの? タオル貸そうか?」
「ア、アジラフェル」
「はい?」
「ア、アジラフェル……」
何度も名前を呼ばれたが、今日はクロウリーと何かしらの約束はしていないはず。
人見知りの引き篭もりで、ほとんど外出しないアジラフェルではあるが、
誰かとのミーティングは絶対に忘れない。
はあ、と漆黒のスーツの袖で顔を拭ったクロウリーは、深呼吸をしてから
色素突然変異症の金色の瞳で、アジラフェルのアクアマリンを真剣に
見つめていた。今日に限って珍しくサングラスを外している。
なんでだろう?と疑問符を飛ばしまくっていると、イタリア製だろう革靴が
キュッと音をさせて、上質なシルクのスーツのままにクロウリーが
膝を折った。
「レディ・アジラフェル・クリスティ・マイトレーヤ、俺と、私と、
結婚を前提にお付き合いして頂きたい」
ポロン、と本棚に囲まれたリビングにメッセージ音が軽やかに落ち、そこでアジラフェルは鮮明に思い出せる回想から、現実世界へ引き戻された。
『急がなくていい、鍵を使って入るから、用意はゆっくりで。C』
「うわわわわわわわ」
いつものように優しい言葉が連なっているのだが、早くしないとランチタイムが
終わってしまう。きっとクロウリーも今朝から何も食べていないはず。
『ごめん、入って待っていて』
リプライを返して、バスルームに飛び込んだ。愛用しているヴァーベナのシャンプーとコンディショナーで髪を洗い流し整えて、長い柄の馬毛ブラシで背中を濯いだ。
イギリスに住んでいた頃には、フランス製のボディソープなど使っていたが、
日本に移住してからは水の性質が変わったので、ネットでポイントセール期間に日用品や白米、インスタント食品を多めに買うようにしている。
作品の創作期間に入ってしまうと、一週間全くも外に出ない日もザラにあるのだ。
脱衣所でドライヤーを使っていると、扉の向こうに気配を感じた。クロウリーだろう。きっと、散らかした部屋の掃除をしてくれているに違いない。
「クッ、クロウリー! 私が後で片付けるから!」
「いや、暇だしこんくらいは……。おいアジラフェル、お前はもっと暖かい水分を取れって言ってるだろう。ビタミンサプリとプロテインで全部の栄養を摂取するできるワケじゃないんだぞ」
「知ってるよ! いいから座っていて!」
「座る場所がねぇんだよ」
低い、掠れた笑い声が響く。「ああもう……」とオスマンサスのヘアオイルを髪全体に伸ばしてから、急いでワイヤーブラとウエストを覆うショーツを身につける。
Eカップのバストは、アジラフェルにとって多くのコンプレックスのうちの一つだ。肩は凝るし服のサイズも限られてくる。作業中は少しでもラクなポテンシャルを保持したいので、家の中ということもあってほぼ毎日ブラはつけない。
クロクリートこうして外出するようになり、さすがに気まずさを感じて百貨店の下着専門店にて、数種類のそれらを購入せざる得なくなった。
自分が嘲笑されるのは構わないのだが、同伴する彼に恥をかかせるわけにはいかない。
「お、お待たせしたね!」
「お〜、似合うぜそのワンピース。伊勢丹で買ったやつか?」
「英国展で君とフィッシュアンドチップスを食べた時、君からプレゼントしてもらったでしょう。そろそろ肌寒いから今日は長袖!」
「あの料理は美味かったよなあ。日本で食う方が良い味ってのも奇妙だが」
「上質な油を使っているし、使いまわさないからね。スコーンも私はこっちの味が好き」
淡やかなブルーは、アジラフェルの瞳に合わせたシフォンだ。二十重ねになっていて、アンダーのハーフウールが暖かい。
「椿山荘のオータムランチを予約しておいた。今からならハープの生演奏に間に合う。食い終わったらそのまま房総のコスモス畑へ行こう」
シューズボックスから、これまたクロウリーから贈られた、マリ・クレールの
ワンストラップ・シューズを彼が引き出す。深い葡萄色のエナメルだ。
クロウリーの今日のファッションは、柔らかなライトグレイのカシミアセーターに、漆黒のウールスラックス。首元には彼の赤い髪によく似合うエルメスのスカーフ。スレンダーな長身だが、手をつくとしっかりとした筋肉に包まれているとわかる。
「痛くないか?」
「大丈夫、ありがとう」
「ああ、そうだ」
ポケットから長い指に取り出された小さなリボン掛けの黒い箱。アジラフェルが不思議そうに眺めていると、長い髪を高く結ったクロウリーが、手品のように一本の口紅を差し出してくる。
「食事の後に渡すつもりだったが、今こそ必要だ」
アジラフェルの小さな顎に整えられた彼の爪が伸びて、さらりと唇に濡れた感触が走る。
「ん〜って、してみな」
「ん〜?」
唇の皮膚を上下に引き締めると、「お、やっぱり良い色だな。さすが俺」と、嬉しそうなハンサムが玄関スペースのロングミラーに、アジラフェルを写して見せた。
「アジラフェル、とても綺麗だ」
ほんのりと、熟れたオレンジのような色彩が真っ白なミルクの上に浮かべられている。
「その、私にはちょっと派手過ぎないかい?」
「お前は色が白いから、少し健康な色合いが映えて良い。さて、よろしいかな姫君」
ウエストのリボンをクロウリーに支えられて、オートロックドアを潜る。
初めて出会ってから一年半。一度として彼に直接、肌に触れられたことはない。
どちらかと言えば男性恐怖症のアジラフェルには、この距離が精一杯なのだと熟知しているからだ。
あのプロポーズから一年半、結局アジラフェルは断ったままに目の前の問題から逃げてしまっていた。
「友達なら……」という返事に、彼は「だろうと思った」と苦笑して以来、その話題は二人の間で暗黙のタブーとなってしまっている。
このままで良いわけがない。アジラフェルは日々、クロウリーに申し訳ないと
悩みながらも、一歩ずつ確実に自分の心の部屋に踏み込んで来る彼の行動を強く拒否できずにいた。優しくユーモアに溢れて、いつでも手を差し伸べてくれる彼を、正直、他の誰にも奪われたくなかった。自分でも大概な卑怯者だ。
「アジラフェル」
「な、なんだい?」
「下らないことは考えるなよ。取り敢えず、こんなに晴れた最高の日に二人きりだ。花畑を眺めながら楽しくやろうぜ」
心を読まれたんだろう、日本に来てから彼が購入したレクサスRC-Fのステアリングを握りながら、「BOHEMIAN RHAPSODY.」をBGMにサングラスの下でクロウリーは微笑んでいた。