映画『ブレスレス』
2019年/製作国:フィンランド・ラトビア/上映時間:105分
原題 Koirat eivät käytä housuja (犬はパンツを履かない)
監督 ユッカペッカ・ヴァルケアパー
予告編(日本版)&(フィンランド版)
予告編(フィンランド版)
※個人的には 「フィンランド版」の方が好みです(お尻を叩くシーン収録)
ストーリー
ある日突然に起きた湖での不慮の事故により愛する妻を失った外科医のユハは、娘と共に十数年を経た後も、妻を救うことが出来なかったという「自責の念(トラウマ)」に苦しみ続けていた。
そんなある日、ユハは成長した娘と訪れた建物(娘が舌ピアスの穴をあけるために訪れた場所)にて、偶然「SMクラブ」の一室に迷い込み、ボンテージ衣装に身を包んだドミナトリクス(女性支配者、女王様)のモナと運命的に出会う。その初遭遇は、ユハを予約客と間違えたモナが、いきなり鞭で叩いて床に蹴り倒し、馬乗りになって鞭の柄で首を圧迫してユハを酸欠状態にするというものであった。そしてその酸欠状態のさなか、妻を救えなかった際の水中での記憶(妻との最後の記憶)と感覚が脳裏に蘇ったユハは、その日を境にモナの元へと通い始めることとなる。しかし窒息SMプレイに「生きている実感」と「ある種の快感」を見出してしまったユハの衝動はやがて抑えが効かなくなり、仕事や私生活を侵食してゆくのであった……
そしてユハがモナへと求める窒息SMプレイは日増しにその難易度を増し、やがて生死にかかわる危険な領域へと踏み込んでゆく……
ユハとモナが、そのめくるめく行為の果てにゆき着いた世界とは……?
レビュー
優しく、美しく、理知的な作品です。
全編に散りばめられた視覚的なメタファーは(音楽、色彩含む)、セリフに頼ることなく主人公の心理を語り、感動的なまでに一人の中年男性の再生の物語を描きます。
しかし逆に言えばメタファーの数々を見逃してしまったり、その意味が理解出来ないと、本作の魅力を味わうことは出来ません。
「SM」と聞くと「普通」の人は、「異常」であるとか「病的」「変態」という言葉を連想してしまうようですけれども、本作の主人公、ユハとモナは、むしろ「正常」であり「健全」、そして「常態」です。
注目していただきたいのは、ユハは心臓外科医、モナはリハビリ専門職(たぶん「理学療法士」)という、何れも医療関係の職業に就き、日々「患者の身体の不具合を回復させるための補助」を職務とする、いわば「普通」の人々よりも「知的レベルの高い」人物達であるということです。
面白いのはユハもモナも、「仕事」時と「SM」時で、その行いが反転するという点にあります。ユハは患者の心拍数を安定させることを最終目標とする「仕事」についていながら、「SM」時には自分の身体の心拍数を乱す「窒息」行為を求め、モナは患者の「身体機能を回復させる」職業についていながら、「SM」時には「他人の身体を痛めつける」行為を求めます。
そしてユハとモナにとっては、「SM」行為を実行しているときこそが「常態」=「本当の自分の感覚(姿)で呼吸(ブレス)することの出来る時間」であり、ゆえに「生きる喜び(実感)を得ることの出来る唯一の時間」となっているわけです。
本作はそういった、マイノリティーな感覚を描くのが途轍もなく巧く、優しく、美しい。
ここでひとつ本作のメタファーの例を記します。
冒頭、主人公は妻を救うため湖に飛び込み、危うく自分も窒息死しかけたところを、漁師に助けられます。
ユハが漁師に助けられ網と魚と共に船に引き上げられたシーンには、ユハと網と魚が一緒に映ります。魚は陸に上げられたことにより窒息死しかけています。対してユハは陸に上げられたことにより、魚とは逆に窒息状態から回復します(呼吸を回復します)。
この場面にて見落としてはいけないのが「網」の存在で、「網」はユハが「トラウマ」を得たこと(「トラウマ」に縛られたこと)を示すメタファーとなっています。そして「窒息する魚」と「窒息から回復するユハ」と「網」の3つを同時にカメラの枠内へと収めることにより、「ユハはトラウマを得て地上での生活において精神的に窒息した状態の人生を送ることとなる」ということを暗示するわけです。
そのようなユハの状態が恐ろしく苦しいものであるということは、酸欠状態となった経験のある人には、よくわかることと思います。
※もし娘が居なければ、ユハはその苦しみから自殺していたことでしょう
強い「トラウマ」であったり、先天的、又は後天的に身に着いた「性癖」というものは、医学により「治療」することは出来ません。
またそれらを身に着けてしまうことは、必然的にマイノリティーとなることを意味し、「普通」の人々(マジョリティー)のために作られた(「都市」等の)場所にて生きる時間を、とても息苦しいものへと変えます。何故なら自分を理解してくれる人のほぼ存在しない場所で、時には「差別」まで受けることとなるからです。
ですからモナが「私は普通なんてキライ」と言うとき、そこにはいくつもの理由と思いが秘められているという事を、鑑賞者は理解する必要があります。
また自分を見ればわかりますけれども、「普通」であるということは悪く言えば「凡庸」であるということであり、ある意味感性や感覚が「鈍い」がゆえに「普通」と呼ばれるような似通った「物」「視点」「状態」ないし「状況」に、特に不満を持つこともなく「満足」していられる状態にあるわけです。
モナは「相手の肉体を痛めつけることにより快感を覚える性癖」の持ち主ですけれども、それゆえに相手の肉体のみならず「精神」の痛みを感じる能力にも秀でており、仕事においてもSMにおいても、他人に対し「精神」的なサポートを行っています。
鑑賞しながら、本物の「SM」における神髄は「肉体的な快楽を与える」ことを前提としつつも、むしろ「精神的に手厚くサポートする」部分にこそあるのかもしれないと感じました。
よく考えてみれば、ペットである「犬」と飼い主である「人間」の関係も言葉を介しません。そして互いが強い絆によって結ばれたときには、人間同士による言葉を介する関係よりも、もっとずっと深い領域の信頼関係を構築するに至ります。
原題にあるように「犬はパンツを履かない」生き物ですから、女王様(飼い主、ご主人様)の「犬(ペット)」になるには、まずは女王様の前でパンツを脱ぎ(肉体的にも精神的にも)裸になり、何もかもさらけ出すことから始める必要があります。そして首輪をつけてもらい女王様と関係を繋げてもらったのち、女王様が選んでくれた装身具(女王様のイメージする姿?)を身に纏い、飴(お褒めの言葉)と鞭とご褒美(自分のしてもらいたいこと)を与えられながら「調教される」ことにより、きちんとその命令に従い、且つ心よりその身を捧げる(女王様に預けられる)ようになることで初めて、女王様の「犬(ペット)」として認めてもらうことが出来るようになるのです。
またもしその主従関係を最高のものへと昇華したい場合は……、つまり女王様の「生涯のパートナー(一番のペット)」として認められたい場合は、犬の方もしっかりと女王様の心と身体の欲求を受け止め満たしてあげる必要性が生じるため、双方向の「お互いの性癖や心理」に関する「深い理解」と「信頼関係」を結ぶことが必要となり、その難易度は当然ながら高い物となります。
考えてみれば肉体的にも精神的(思考的)にも、さらには性癖や日常生活のリズムまでもが違う男女同士による本物の信頼関係の構築を目指すわけですから、難しいのは当たり前です。
モナにとってユハは、そしてユハにとってモナは、最高の相性ですけれども、逆にそれ故にふたりの前には高い壁が立ちはだかります。
例えばユハは窒息によって死ぬことを全く恐れないため、モナは自分の要求をどこまでも満たすことが可能となるものの、場合によっては自分の快感に浸っている間にユハを殺してしまう危険性も伴います。ゆえにお互いに、ある部分において相手に対し、自分の人生(や身体)をゆだねる覚悟が必要となります。またその際には、相手を信頼するだけでなく、相手の抱える痛みや悲しみ、そして孤独や闇までをも理解しようとする努力が必須となりますが、それを受け入れるには困難且つ(精神的、又は肉体的に)キツイ状況となります。しかしある種の人間同士が本物の信頼関係(パートナーシップ)を築くためには、そこは絶対に避けては通れない部分であり……
本作はその関係構築の過程が温かく、クスっと笑えるように描かれており、本当に素晴らしかったです。
ラストの流れも最高な、とても×2、好きな作品。