映画『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』
2017年/製作国:アメリカ/上映時間:112分
原題 The Florida Project
監督 ショーン・ベイカー
予告編(日本版)
予告編(海外版)
STORY
6歳のムーニーと母親のヘイリーは定住する家を失い「世界最大の夢の国」フロリダ・ディズニー・ワールドのすぐ外側にある安モーテルにて、その日暮らしの生活を送っている。シングルマザーで無職のヘイリーは、理不尽で厳しい現実に苦しみながらも、なんとか娘のムーニーと一緒に生活してゆこうと奮闘するが、その生い立ち等も足を引っ張り、中々上手く行かない。
一方、娘のムーニーから見た世界は、キラキラと光り輝く色彩あふれる世界であり、その毎日は、モーテルにて共に暮らす子ども仲間との冒険に満ちたものであった。
しかしある出来事がきっかけとなり、母と娘の貧しくも幸せな日々に、現実の闇が影をおとしてゆくこととなる……
レビュー
【WARNING】:以下、3万1千文字以上あるため、スルー推奨。
フィルム撮影による、光と影、色彩の魔法。
いつまでも心に灯り続ける音たち。
子どもの感性そのものを捉えた、生命力に満ち溢れたシーンの数々。
綿密なリサーチに基づく、奥深い世界観。
革新的な表現に挑戦し、それを見事に掴み取ったショーン・ベイカーの才能
感情の果てに咲く、愛と、友情と、勇気の花
悲しみと寂しさ、そして楽しさと優しさが奏でる音色に包まれて……
この作品が好きだ。
狂おしいほどに、愛おしい。
第一部
【はじめに】
本作は3年もの綿密なリサーチに基き、経済的に困難な状況の中で懸命に生きるシングルマザーの親子の目線を中心に、現在のアメリカが抱える社会システムの欠陥を鋭く描いて(暴いて)ゆきます。革新的なのは、社会の暗部を暴くことのみに終始せず、子どもたちの生み出す豊かな想像力とユーモアに溢れる美しい瞬間の数々を、その「視線」と「感性」のままに捉えることにより、観る者の心に行動する勇気を与えることに成功している点です。
ただし、隠されたサインの数々に目を向けることなく表面的な鑑賞に終始してしまうと、本作を楽しむことは難しくなってしまう可能性があります。
そこで以下に少しだけ、本作を楽しむためのヒントや、鑑賞ポイントを紹介してみたいと思います。
この個人的な考察が、読んでくださる方の作品の理解や楽しみを広げるものとなりましたら、幸いです。
注:【考察】では「STARLET」は、主役のムーニーと同じ6歳に戻り、子どもの視点や言葉を用いて記してみたいと思います(子どもっぽい言葉で記しますゆえ、不快に思われる方はスルーしてください)。また、子どもの言葉や視点だけでは語ることの出来ない部分への言及は、[大人視点]の考察を捕捉し、解説いたします。
【作品の背景】
《タイトル》
『フロリダ・プロジェクト』というタイトルは、ディズニー社がディズニーワールドを、フロリダ州オーランドに建設した際の計画名です。また「プロジェクト」という言葉には「低所得者向け公営住宅」という意味もあることから、巧みなダブル・ミーニングとなっています。
《舞台》
主人公親子はディズニーワールドにほど近いフロリダ州のキシミーにある、192号線沿いのモーテル、「マジック・キャッスル」に住んでいます。
モーテルの近くには遊覧ツアー会社とそのヘリポートがあり、日々、観光客達が遊覧飛行へと出かけていきます。
また192号線沿いには、ディズニーのグッズを扱う寂れたギフトショップ等が観光客目当てに点在しています。
《主な登場人物》
ムーニー:物語の主人公(女の子)
ヘイリー:ムーニーの母親でシングルマザー
ボビー: マジック・キャッスルの管理人
ジャンシー :ムーニーの親友(女の子)
スクーティ :ムーニーの親友(男の子)
アシュリー:スクーティの母親で、ヘイリーの友人。
ジャンシーの祖母:娘の2人の子どもを引き取り育てている。
《主人公親子の経済的な背景》
ヘイリーは無職で求職中。また無職であるために政府の「援助金」を受け取ることが出来ない状況です。
職を得ることが困難な理由としては、2008年頃に起きたサブプライム住宅ローン危機(これによりアメリカ全土で約600万人がホームレスとなった)に端を発する世界金融危機の影響があります。さらに、ヘイリーの外見、物腰、低学歴などの要素も災いしています。
また、ヘイリー親子は様々な事情(ヘイリーの逮捕歴等)からアパートの部屋を借りることが出来ない「ヒドゥン・ホームレス(隠されたホームレス)」の状態であり、ひと月約10万円もの支払いが必要となるモーテル暮らしを強いられています。
そのような生活環境は、政府によるセーフティネットにすら頼ることの出来ないところまで追い込まれてしまっている親子の状況を示しています。
【重要なキーワード】
① 《愛とスキル》②《色》③《音》④《看板》⑤《「公」と「私」》⑥《夕空》⑦《子どもは社会全体で育てるということ》⑧《レンズフレア》
① 《愛とスキル》
ヘイリーのムーニーに対する愛は本物です。しかし子育てには愛よりも優先するべきものがあります。子育てスキルです。
なぜそのように言えるのかは、以下に例を出して説明します。
あなたが人生をかけた手術することになったと仮定して、ふたりの医師がいたとします。それぞれ以下のセリフを言ったとしたら、あなたなら1と2の医師のどちらを選択しますか?
1:「私は数回しか手術をしたことがありません。成功率は約30%です。でも今までもこれからもあなたをとても大切に思っていますし、深く愛してもいます。全身全霊心をこめて手術をしますから私に任せてください」
2:「私はあなたのことを好きでも嫌いでもありません。しかし、この手術に関しては数百例以上経験しており、その成功率は98%です。もしあなたが私の手による手術を望むなら、全力で挑みます」
如何でしょうか。私なら即答でスキルの高い「2」の医師を選択します。
子どもの人生がかかっている子育てにも、同じようなことが言えるのではないでしょうか(もちろん、深い愛情と育児スキルの両方を持っていることが理想であることは言うまでもありません)。
話は飛びますけれども、本作を鑑賞する上で最も大切なことの一つは、提示されている様々な情報から、ヘイリーの育児スキルが低い理由を生み出している社会背景(社会システム)を読み取り、さらにその全体像を把握して、その問題の解決方法を模索する視点を持つことです。
逆に鑑賞する上で最も必要ないことの一つは、ヘイリーの育児スキルの低さを上から目線で冷淡にあざ笑い、バリエーションに乏しい低スキルの侮辱・罵倒表現を用いて高慢と偏見に満ちた評価をドヤ顔で下す、知性と品性の欠如した視点を持つことです。
② 《色》
色は、本作を理解する上でとても大切な要素となっています。その使用方法は豊か、且つ繊細で、行き届いた表現を達成しております。特に重要度が高いと感じられる色に関しては、以下にてその意図を解説いたします(しかしあくまでも一個人の印象であり、監督自身が解説したものではありませんので悪しからず)。
《赤》:ピンクまで含む《赤》系は、主に「愛」を象徴する色として使用されています。稀に、戦闘色、危険色、哀愁を表す色としても使用されています。濃淡によってさまざまな「愛」の形や心理状態も表現しています。
《紫》:紫は、動的な《赤》と静的な《青》が混ざり合った色です。ですので「高貴と下品」「神秘と不安」を表すなどの二面性があります。作品のタイトルと共鳴する、ダブル・ミーニングな色と言って良いと思います。魔法の存在を連想させる色でもあります。
《緑》:主に「混乱」「動揺」。そして「調和」「安心感」等を表現しており、こちらもダブル・ミーニング的に使用されています。
緑の宇宙人のぬいぐるみ、レンズフレア、衣服等は、殆どの場合「混乱」や「動揺」を表します。植物の緑、ヘイリーの髪の色等は「調和」や「安心感」を表す場合が多いです。場面によっては意図が入れ替わる場合もあります。
《黄》:主に「不安」「緊張」。そして「楽しさ」「幸福」などを表現しており、この色もまたダブル・ミーニング的に使用されます。
《青》:主に「穏やかな心理状態」「知性」「誠実」「開放感」等。良い意味合いで使用される場合が殆どです。
《茶》:「温もり」「堅実」「信頼」「頑固」等。
後半、ボビーに多用されます。「土」「大地」「樹皮」などの色でもありますから、「父性」や「守る」という意味合いも含まれているように思われます。
《黒》:主に「悪い」思考や心理状態を表す色。
ペドフィリアや、ヘイリーの体を買う家族持ちの男の衣服等に使用されています。
③ 《音》
色と同じく、作品を理解する上で大切な要素です。
特に重要であると感じた音に関して、その意図を以下に紹介してみたいと思います(あくまでも個人的な印象です)。
[ヘリコプターの飛行音]:経済的に安定した(裕福な)生活を送る人々の「無関心」を表現する音。
[虫の音・鳥のさえずり]:この作品は虫の音と鳥のさえずりから始まります。実際の場所が虫の音に溢れていることや、フロリダの暑さを表現するという理由もあるとは思いますが、それだけではありません。鑑賞者に、セリフや表情等で語られることのない登場人物達の思考や心理に耳を澄まし、想いを馳せて欲しい場面では、その音を意図的に強調することでエモーショナルな雰囲気をつくりだしています。
鳥のさえずりは主に、誰かへの強い思いを宿す特別なシーンで使用されます。
そういえば、昼間の映像に夜の虫の鳴き声を使用していると思しき場面もありました。
[車の音]:無関心ではないものの特別なことがない限り、貧困に苦しむ人々に関わることや考えることをしない「普通の人々の意識」を表現している気がします。
※《音楽》についても語りたいですが、長くなるので割愛します。
④ 《看板》:看板に書かれている文字は、社会背景等を説明するキーワードとなっている場合が多く見受けられます。また「stop」などの道路標識も意図を持って使用されている場合があります。
⑤ 《「公」と「私」》
『フロリダ・プロジェクト』は「公」の視点を忘れずに鑑賞すると、より深く作品の世界を楽しめます。
※注:「困窮している立場の人々」を「鑑賞して楽しむ」とは何事かという意見もあるかもしれませんが、何事も楽しまなければ続きませんし、嘲笑って楽しむわけではありません。これはボランティア等を定期的に続けている人ならわかる感覚と思いますけれども、深刻になりすぎず、一緒に楽しみを見出しながら、しかし真剣に問題と向き合い続ける。そういう姿勢が大切なのではないかと考えております。
「公」と「私」の違いは、漢字の成り立ちを紐解くと分かり易いので以下に記します。
両方の漢字にある「ム」という字には「小さく取り囲む」という意味があります。「私」の「禾」の部分は「稲」という意味ですので、「私」の状態とは「稲を個人で囲い込み他人に渡そうとしない状態」ということになります。一方、「公」という字の「八」の部分には「入り口を開けて開放する」という意味がありますので、「公」の状態とは「他人と利益を分かち合っている状態」ということになります。
主人公達と同じ立場に身を置きつつ理解しようと試み、細やかに描写される社会背景にも注目しながら、同時に全体を「公」の視点を持って鑑賞することで、本作の真意が浮かび上がってきます。
⑥ 《夕空》
登場人物達が夕空を見つめるときは、その時間の長さに関わらず、何かを思い悩んでいることが多い気がします。登場人物達が考えていることを想像するかしないかで、本作の印象は大きく変わります。
⑦ 《子どもは社会全体で育てるという意識を持つこと》
これは「公」の視点に通じることですが、本物の大人であれば当たり前に持っているものではないでしょうか。
以下は、大人が子どもと接するときに考慮すべき要素を分かり易く示した、ネイティブ・アメリカンの言葉です。
⑧ 《レンズフレア》
登場人物達の心理状態や、状況説明を補完する役割で使用されており、作品世界をより深く味わうためのキーアイテムとなります。
今作は建物などが色彩に溢れていますので、大きさなども小さくまとめてあり、必要最低限の使用となっています(しかしこれまでの作品同様、その重要度は高いです)。
【考察:本編時系列順】
6歳の子どもになったSTARLETです。よろしくね。
《ファーストカット~物語の始まり》
作品はムーニーとスクーティが壁を背にして座ってるとこからスタートするよ。壁の色は《白》と《紫》のふたつ。光の強さは左と右で違うの。ムーニー達がどっち寄りのどんな光の強さの場所に座っているかや、白い部分の形の違いにも注目してみてね。このシーンは熱いから太陽の光を避けているだけじゃなくて、他にも意味があると思うの。そのあとどんな言葉の後に『Celebration(お祝い)』の音楽がかかってムーニー達が動き出すのかにもご注目。
そして《紫》の壁をバックにして作品のタイトルクレジットが入るけど、その時点でこの作品はムーニー達の過去の物語で、その過去はちょっとだけ暗いけど、ムーニー達の未来は明るいよ!ということが画だけでわかるようになっています。
[大人視点]:時間軸として、画面左は「過去」。右は「未来」を表す方向です。光は、左が暗く、右は明るくなっています。
ムーニー達は左の方へと走り出し、物語は始まります。
《つば爆弾大量投下事件発生》
ムーニーのTシャツには「I decided to be AWESOME TODAY」って書いてあるよ。いい感じ。
っていうか、爆弾が狙ったとこに命中したらめっちゃ気持ちいいよね!大人がバスケとかボウリングして遊ぶのとおんなじ感覚。汚い言葉を叫んだりするのはスッキリするし楽しいからだよ。ストレス発散って言うのかな。大人がお酒飲んで愚痴ったり、スポーツを観てブーイングとかヤジを飛ばしたりするのと同じ感覚だよ。
あっ、ちなみに、このつば爆弾事件のおかげでムーニーとジャンシーは親友になれたし、大人同士も仲良くなったよ。大人はすぐに「悪戯したらダメ!」って言うけど、ほんとに全部ダメなの?
ただ、ディッキーがお父さんに捕獲されちゃった……。まぁそういうリスクはあるよね。
《車のお掃除》
つば爆弾も楽しいけれど、お掃除もみんなですると楽しい!自分たちが汚した部分以外も綺麗にしたくなっちゃう気持ちもわかるなぁ。
このシーンはみんな笑顔になるから好き。
《ワッフルをもらって食べる》
フロリダ熱そう。ムーニーとスクーティの後ろの壁の絵で、ふたりとも相手のことが好きなのがわかるし、ワッフルを貰うシーンにも繋がっていて面白い。
モーテルに戻ったムーニー達がワッフルを食べてたら、ヘリコプターが飛び立った。音うるさいし、あんまり好きじゃないなぁ。
[大人視点]:ヘリコプターのツアーは1回10数分ほどで映画上映当時45ドルのようです(YouTubeにあったお店の実際の宣伝動画を確認し価格を調べました)。ムーニーの住んでいるモーテルの料金は一泊38ドル。富裕層が低所得層の苦境になど目もくれず、目と鼻の先から高みの見物を楽しみに行くことへの、ヘイリーの中指立てと思われます。
《アメリカ版ハローワークにて》
ムーニーのママのヘイリーは、ちゃんとした仕事に就きたいのに就けない。可哀そう。
[大人視点]:女性(特に低所得者)は足元を見られ、法律に反して性的なサービスを強要される場合があります。断れば首になることも多い。しかし店側のそのような違法行為を咎めるには裁判に訴えるしか道は無く、裁判費用を捻出出来ない場合は泣き寝入りするしかありません。また、たとえ裁判に勝ったとしても、今回のヘイリーの案件の収支はマイナスとなるはずです(弁護士だけが儲かる)。
またこの場面では車を所持していないヘイリーがバスの無料パスを欲しがっていますが、これは離れた場所へ仕事を探しに行くためでもあります。車社会のアメリカで車が無いことは移動手段を奪われるということに等しく、通常の買い物すら困難となる場合もあり、生活に致命的なダメージを与えることもあります(生活困窮者が経済的にも時間的にも体力的にも更に追い込まれてしまうシステムを国が採用しているわけです)。
《ジャンシーを仲間に入れる》
ディッキーが投獄されちゃったから、かわりにジャンシーを仲間に入れたみたい。人数いた方が楽しいよね。そうそう、ジャンシーの部屋では食事を作れるみたい。ムーニーのとこよりいいかも。
その後みんなで歩いて「オレンジ・ワールド」→「魔法使いのギフト・ショップ」→「ツイスティー・トリート(アイスクリーム屋さん)」に到着。
お金のある大人から少しずつお金を分けてもらってアイスクリームを食べるのは、すっごく良いアイディアだと思う。
[大人視点]:幼いころから赤の他人に金銭を恵んで貰う習慣が身についてしまっているということがどういうことなのかを、考える必要性があります。
※劇中ムーニー達が食べているアイス等の甘いものは、子役たちの健康を考慮し、全てシュガーフリーのものを使用しているとのこと。そういう配慮がなされているところも、素晴らしい作品です
《ジャンシーに自分たちのモーテルを紹介する》
[大人視点]:モーテルの環境、住んでいる人々の境遇等がわかる重要な場面です。ムーニー達の悪戯でブレイカーが落ちた時、まだ昼間にもかかわらずほとんどの人が外へ飛び出してきます。その後のボビーのセリフからも、殆どの人々がTV画面を見ていたことを推測できます。低所得者に共通する習慣の1つは長時間のTV視聴です。それは教養と知識から遠ざかることを意味しています。
《泣いちゃう女の人》
ハネムーンだから気持ちはわかるけど、ちょっとゴネ過ぎだと思う。ムーニーの方がずっと大人に見えた。だってムーニーは大変なことも楽しみに変えちゃうし、色々我慢してるでしょ。あと、大人が泣くタイミングが分かるのって、何回くらい見たら分かるようになるのかなって思った。
翌日の朝、ボビーが落ち葉の掃除をしてるのには笑った。昨夜は大変だったねボビー。
《教会の施し》
キリスト教の人達がパンをタダでくばっているのは優しい行為だなぁとは思うけれど、自分たちと同じ神様を信じてほしくてしているのかなっていう感じもするし、ムーニーはこのあと何度もパンをもらうことになるけど、そういうのを当たり前にしちゃっている気もする。それに2000年くらい前からパンとか配ってるのに、全然問題が無くならないのはなぜ?
[大人視点]:物品支援はやり方を間違えると現地経済を破壊したり、援助依存を招く危険性もあります。またあくまでも一時的対処なものであって、問題の予防や根本的な改善には繋がりにくい現実があります。以下、そういった問題に関する有用な参考資料となりえる映画&書籍を記します。
映画:●『ポバティー・インク あなたの寄付の不都合な真実』
書籍:●『援助じゃアフリカは発展しない 』 ダンビサ・モヨ (著), 小浜 裕久 (翻訳)
●『貧乏人の経済学―もういちど貧困問題を根っこから考える 』アビジット・V・バナジー (著), エステル・デュフロ (著), 山形 浩生 (翻訳)
●『善意で貧困はなくせるのか?―貧乏人の行動経済学、傲慢な援助』ウィリアム・イースタリー (著), 小浜 裕久 (翻訳), 織井 啓介 (翻訳), 冨田陽子 (翻訳)
※ちなみに劇中パンを施している理由は、キリスト教ではパンがキリストの体とされるからです。また、貧者への施しは最上の美徳であり、キリストは「貧者は自分自身である」と言ったと聖書に記されています。
《紫のペンキは高い》
ペンキじゃなくて利用者のためのベッドにお金を使うべきだって言うジャックの言うことは、あっている気がする。なんでベッドじゃなくてペンキを買うの? あと、捨てられたベッドが長めに映されているけど、なにか意味があるのかなぁ。
[大人視点]:ボビーはジャック(息子)の疑問への回答をとっくに理解していますけれども、そのことを考えないようにしています。何故ならオーナー(ケチなボス)にその疑問を呈すれば自分の首が飛ぶことを知っているからです。ボビーのTシャツの色は《灰》。ジャックは《赤》。心理が表れています。
「紫のペンキ」と「ベッド」が、どのようなことについてのメタファーなのかは重要です(ヒント:「ベッド」は生活必需品であり、モーテルで生活する人々が部屋の中で最も長く時間を過ごす場所です)
《ボビーの魔法》
ボビー、今日も一日お疲れ様。ボビーが煙草に火をつけたら、各部屋の街灯が点いたのは魔法みたいだった。ボビーが毎日しているちょっとした優しい行為は、きっとモーテルに住む人達の生活に明るい光を灯しているのね。
そういえばその時、花火の音も聞こえていた気がする。
[大人視点]:ちなみにディズニー・ワールドのマジック・キングダムで打ち上げられる花火は「ウィッシュ(希望)」と命名されています。
またボビーのシーンの後にはiPadでゲームをするムーニーとスクーティのシーンがあります。iPadのゲームの光は2人に小さな対立をもたらすばかりで、ボビーの煙草の火の光と見事な対比をなしています。
※本作はタバコを吸うことを良い行為として扱っているわけではなく、タバコの火とその色をメタファーとして利用しています。
《ソフトクリームベロベロ食べ》
このソフトクリームの食べ方いい!今度マネする!そして、このシーンめっちゃ笑えて好き!
[大人視点]:音の使い方が巧です。ヘリコプターの「無関心」の音を流しつつ、ボビーが無言でしっかりとムーニーとスクーティを見ているシーンを撮影しています。この音と画の対比により、ボビーはふたりを大切に思っていて、且つその人生に強い関心を持っているということを強調します。
「自分をきちんと叱ってくれる人は、探してでも見つけだせ」という言葉をどこかで聞いたことがありますけれども、ボビーやジャンシーの祖母は、まさにそういった「得難い」人物です。
《ボビーが101号室へ》
[大人視点]:これはジョージ・オーウェルの小説『1984年』の101号室へのオマージュであり、引用でもあると思われます(危うく『101匹わんちゃん』へのオマージュと勘違いするところでした……)。
ボビーが直面している現実と、入居者に下さなければいけない行動は残酷です。101号室への入室前、ボビーはムーニー達に銃を撃つマネをします。これはムーニー達であっても、見逃すことの出来ない規則に抵触した場合は、その規則を順守してモーテルから追放しなければならないという現実を表していると思われます。
また、手で作られた銃の上には《緑》と《黄色》のレンズフレアが発生しており、且つ画面全体が緑と黄色の色彩で統一されていることから(モーテルの部屋のドアの街灯も《緑》に調整されている?)、ボビーが翌日の朝に、今まで見守ってきた住人を追い出さなければならないことに対し、強い不安や緊張を感じて乱れた心理状態となっていることを表していると考えられます。
101号室の部屋に入る直前にヘリコプターの音が強く聞こえていて、ボビーはそのヘリコプターの方向をチラッと見ます。住人を追い出す行為を実行するにあたり、ボビーが自分の優しさ(感情)を押し殺し、「無関心」の鎧を着る決意をしたことを意図しているのではないかと思われます。
※個人的には、「ダブルシンク(二重思考)」の捉え方などにジョージ・オーウェルの小説『1984年』からの影響を強く感じました
《大人の種類と「ペドフィリア」の来襲》
アイスクリーム屋の店員みたいに、イヤな態度でイヤな言葉を投げつけてくる大人には同じようにやりかえしてもイイと思う。だって大人が間違ってるでしょ……
ボビーはそういうことしないから好き。気持ち悪いオジサンがモーテルにきたときも追い払ってくれたし。
[大人視点]:子どもと接する時、ひとりの人間として尊重し、関係を築くことの出来る大人と、そのような接し方をすることの出来ない大人とが存在します。
ペドフィリアがモーテルに来襲したとき、ボビーは、《生成り》色のペンキをモーテルの壁面に塗っています。この色は子どもたちの、まだどんな色にも染まっていない純真無垢な心と人生経験を表す色です。ですから《生成り》のペンキの缶が地面に落ちて、ペンキが回収不可能な程に飛び散ってしまうのは、ペドフィリアによって子どもたちが性的虐待を受けた場合の危険性を示すメタファーです。覆水盆に返らずで、一度破壊された心と人生経験は二度と元には戻らないからです。
ペドフィリアの服装はほぼ《黒》一色。Tシャツの上に羽織っているシャツの色だけが黒ではなく、ボビーが塗り替えている壁面と同じ汚れきった《生成り》色なのは、ペドフィリアが子どもたちを騙すために無害な人間を装って、フェイク色を身につけているという解釈で間違いありません(汚れた《生成り》=純粋ではない)。
ペドフィリアがインナーに着ているTシャツの色は《黒》で、靴は毒を持った生物に多く見られる危険色の《赤》と《黒》の混合色。おまけにベルトもズボンも、財布まで《黒》です(ペドフィリアと一緒に長く映る車や、モーテルの2階を歩く人の服も《黒》。画面全体に及ぶ色彩調整による明確な表現)。
対してボビーの服の色は、子どもたちへの強い愛とペドフィリアへの強い怒りを表す濃い《赤》のTシャツ、ブルーのジーンズ。靴とベルトは《茶》。アメコミのヒーローとヴィランのように2人の色は対照的です(ディズニー映画でもヴィランと言えば《黒》ですよね)。
ボビーのペドフィリアへの対応は完璧でした。
そしてソーダと紅茶のメタファーも素晴らしい。
ペドフィリア達は、足がつかないように遠征するという記事を読んだ記憶がありますが、この作品でもそれを証明するように、遠く離れたニュージャージー州から来襲しています。
更に書くと、ペドフィリアが来襲する直前にムーニーとジャンシーは、ヘリコプターや空に向かって手を振り「気を付けてね」と気遣う言葉を発したり、「ハレルヤ!神様ありがとう!」と神を称える言葉を述べたりしています。しかしペドフィリアに襲われそうになったときに助けてくれたのはボビーであり、ムーニーとジャンシーが気遣ったり感謝の言葉を述べた、無関心な富裕層の人々や神様ではありませんでした。
アカデミー作品賞・脚本賞を受賞した『スポットライト』という映画を御覧になった方であればピンとくると思いますが、この一連のシーンはカトリック教会が、神父による恐ろしい数に上る児童への性的虐待の事実を、組織全体で把握していながら、解決策を講じることも警察と協力して捜査を行うこともせずに、逆に政治的な圧力まで利用して何十年間にも渡り組織ぐるみで隠蔽し、事件を闇に葬り続けていた事実への強烈な揶揄としても機能しています。
それゆえにボビーは、ペドフィリアを追い払った後にヘリコプターと空の方に視線を向け、それから直ぐにムーニーとジャンシーを見つめ、ムーニーとジャンシーは「強調されるヘリコプターの音(富裕層の大人たちとその無関心)」と「空(神&宗教組織)」とに背を向けて、自分たちを救ってくれた恩人であるボビーを真剣な眼差しで見つめ返すのです(そのとき「両者の視線はしっかりと繋がっていた」はずです)。
※『スポットライト』と合わせ、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』『フロム・イーブル 〜バチカンを震撼させた悪魔の神父〜』等を鑑賞していると、このシーンへの理解はさらに深まることでしょう
《閉店した診療所》
[大人視点]:ムーニー達の住んでいる地域は、医療状態も極めて劣悪です。
《暖炉で火をつけたら家燃えちゃった事件》
火事を起こそうとしたわけじゃないと思う。でも火事になっちゃった。ビックリしちゃうよね。
死んだ魚をプールの水に入れて生き返るかどうかを試したときみたいに、暖炉があってライターがあったら火をつけてみたくなっちゃうものだよ。私もムーニー達と一緒で暖炉のある家に住んだことないけど、TVとかで暖炉に火が燃えてるの見るのはなんか素敵だし、モーテルに住んでるムーニー達の気持ちすっごくわかるなぁ。
[大人視点]:ムーニー達はフェイク暖炉の存在を知らなかっただけで、放火をしようとしたわけではありません。ドラッグ売買や売春の巣窟でもあったという放置された空き家。燃えた方が良いという人もいて、火事になって良かった部分もあるという視点が、治安の悪い地域のリアルな状況を伝えて秀逸です。
でもこの火事の一件が、この後大きな火種となり、ムーニー達の人生に襲い掛かってくるのは悲しい。
《グロリアとボビー》
[大人視点]:夕陽を見つめるグロリアの前を通り過ぎようとしたボビーは立ち止まり、グロリアにタバコを1本もらって一緒に吸います。夕陽を見ていたグロリアの表情は何かを思い詰めている節がありました。私には、ボビーが一緒にタバコを吸うことにより、グロリアの心に小さな火を灯し、その命を救ったように見えました。
《壊れた製氷機を運ぶ》
[大人視点]:ボビーと息子さんの関係は、お互いに愛し合っているにも関わらず上手くいっていません。これは推測ですけれども、ボビーと奥さんは親権を奪い合う泥沼の離婚裁判を経験している可能性が高いのではないでしょうか。そして現在もお互いに憎しみの炎を燃やし続けている。しかし息子さんは両親を共に愛しているため、板挟み状態に陥りながらもなんとかその仲を取持とうとして苦しんでいる状況なのではないかと思うわけです。そう考えると壊れた重い製氷機がメタファーとして生きてきます。
ボビーは、息子の気持ちは理解しているものの、元妻への憎しみの感情を冷やすことが出来ずに毎回のように息子を傷つけてしまうことに対して苦しんでいるはずです。時計回りに回転させるのが難しい製氷機、エレベーターの降下ボタンをボビーが押し忘れるシーンと降下するエレベーターに込められた意図、自分の家族には繊細な性格が仇となってしまっているボビー。この場面も、説明的なセリフを排した見事なシーンの連続でした。
それから、ボビーが最後に息子に放つセリフは、その後のボビーの行動を変化させる、重要な伏線となっている気がします。
ボビーが子どもたちや住人たちの立場に立って優しさを配れるのは、彼自身も長年解決することの出来ない問題を抱え続けており、その苦しみに深い共感があるからなのかもしれません。
《香水を売ることが出来なくなる》
[大人視点]:ヘイリーに逮捕歴があることが分かります。再逮捕されれば、ムーニーと暮らすことすら困難となるため、ヘイリーは帰宅への道を急ぎます。途中、ムーニーが疲れてしまい立ち止まったとき、看板の「Seven Dwarfs Ln NEXT SIGNAL」の文字が目につきます。私には、ヘイリー親子が社会システム(魔女)から命を狙われ追われている、無力な白雪姫に見えました。またヘイリーには「7人の小人(複数の誰か)」の手助けが必要であるとのメタファーも含まれているように感じます。
《隣のモーテルの値上げ》
良い魔女もいるけれど、悪い魔女もいるよね。ヘイリーはお金に困っているから、意地悪をされたと感じて酷いこといっちゃってさらに酷いことに……。またひとつ、道が行き止まりになっちゃった。
[大人視点]:ヘイリーの言葉遣いに対して「だから貧しいのよ」と冷たく言い放つ融通の利かないモーテルのオーナーの対応には疑問が残ります。確かにヘイリーも悪い。しかし、新しくオーナーになった女性は、これまでのモーテル間での取り決めを知っていながら、事前連絡も話し合いも一切無しに取り決めを破棄して値上げを実行しています。そして生活に困窮している人々がいることを知りながら、35→45ドルへと宿泊料を大きく値上げし、ビジネスだと言い切ります。特にお金に困っている様子もない新オーナーの対応は、私には他者への思いやりや共感を欠く、非人間的な対応に映りました。
一方、身銭を切ってヘイリーを援助しようとしたボビーの対応は非常に人間的であり、見ていてとても温かい気持ちになりました。
《ジャンシーの祖母》
ジャンシーのおばあちゃんがヘイリー達を助けてくれてよかった。壁にはイエスの絵が飾ってあるから敬虔なキリスト教徒なのかも。家族の写真も多くてやさしい感じがするお部屋だったなぁ。
《夕陽を見ながら煙草を吸うヘイリー》
[大人視点]:仕事をクビになることになっても性的サービスを拒否し続けてきたヘイリーですが、思いつく選択肢を全て奪われてしまい、ついにこのシーンにおいて、ムーニーとの生活を死守するために体を売ることを決意します。体を売ることは、ヘイリーのプライドを完全に打ち砕くはずですし、一生癒えることのない傷を残すことにもなるはずです。どんな思いでこの決断をしたのか……。自分の過去や社会システムとの戦いに敗れて夕陽を見つめるヘイリーの後ろ姿は、泣いていました。
ちなみに何故このシーンにおいて、ヘイリーが上記のことを考えながら決断したと言い切れるのかというと……
まず、画面手前にある木の幹の枝ぶりと右奥にある2本の木が何れもムーニーとヘイリーを連想させ(「2」という数字と「木」がキーワード)、「夕空」「タバコ(タバコの火=ヘイリーのわずかに残された希望)」「後ろ姿」「虫の音&かすかな鳥のさえずり」「Tシャツの色やイラスト(「格闘技で戦っている」イラスト。この場面では映っていませんけれども、他の場面で確認可能)」という情報。そして前後のシーンの音や状況が、ヘイリーが悩んだ末にその決断をしたことを完璧に説明しているからです。
《虹》
マジック・キャッスルに架かる虹が綺麗。ディズニー映画でも、シンデレラ城に魔法の虹が架かかるよね。ジャンシーのTシャツのイラストはシンデレラ城でいい感じ。
[大人視点]:このシーンにてムーニーとジャンシーが話しているのは、アイルランドの民間伝承のレプラコーンという妖精の話です。その妖精は働き者で、山のように財宝を所有していると言われており、捕まえることが出来たら黄金のありかを教えてもらえると言い伝えられていますけれども、彼らは隠れるのが上手なため捕まえるのは殆ど不可能とのこと。「実現が不可能で叶わない夢」のことをレプラコーンの黄金入りの壷に喩えて、「a pot of gold at the end of the rainbow」と言うそうです。
「妖精」は、アメリカの富裕層へのメタファーとなっており「でもやさしくないから分けてくれない」「よし、襲っちゃえ。行こう!」というセリフには、ムーニーとジャンシーの革命家のような才気と生きる強さが感じられ、微笑ましいです。
アメリカでは収入額の上位1%の人達の資産金額ばかりがどんどん伸びている状況で、それ以外の99%の人々の収入は低下、又は停滞しているという超格差社会です。
今、日本も順調にそのような状況へと向かっていっております(←もちろん皮肉です)。
《花火》
最後の《赤》い花火が一番綺麗。
ジャンシーお誕生日おめでとう!どんな願い事をしたのかなぁ。
[大人視点]:ディズニー・ワールドの花火が見える場所へと向かうため、夕陽をバックに192号線沿いを歩く3人の姿をとらえたショットが美しい。しかし彼らの置かれている状況を考えると、同時に哀愁も感じる、とてもエモーショナルなシーン。
誕生日を両親に祝ってもらえないジャンシー。体を売り始めたヘイリー。母親が自分に隠し事をして何か悪いことをしていると勘づいているムーニー。3人それぞれの気持ちに想いを馳せて色々と記したくなりますが、あえて記さずにおきます。
《ボビーの洞察力》
[大人視点]:扉の閉まる音→男性の現在地と歩くスピードを把握→どの部屋から出てきたのか特定→最近のヘイリーの金回りの良さを思い出す→男が車のエンジンをかける→ヘイリーが体を売っていることを完全に確信する。そんなボビーの感性の鋭さが逆に怖い。
《木の上でパンを食べる》
ジャムパンのジャムペロ最高!
[大人視点]:この場面パンに塗るジャムは、赤色のジャムである必要があります。大切な意図があるからです。
ムーニーのTシャツの色は、ヘイリーの髪の色と同色。背景の木々の緑とジャムの赤は、ヘイリーの胸の入れ墨の薔薇の花と葉の色と一致しています。
ムーニーは、倒れている巨木に座りながらジャンシーに話します。「なんでこの木が好きだと思う?」「倒れても、育ってるから」と。それはまずもって母親のへイリーのことであり、多くの同じ境遇の人々へ向けた言葉でもあると思います。
その会話の後、カメラがその倒れている巨木全体を映しますが、ジャンシーとムーニーは「ハート」の形を作って座っています。
それにしても「倒れても、育ってる」とは強烈な言葉です。育っているという言葉の方に注目すれば聞こえはいいですが、倒れているという言葉に注目すれば、一度倒れてしまった木は自力で正常な状態に戻ることは出来ないという事実が横たわっているからです。ましてや成木です。では、その倒れても懸命に生きようとしている木を助け、元の状態に立て直すにはどうすればよいでしょうか。
その答えはひとつです。まずは周りの多くの人々がその木の存在を認識し、助けたいと考え、協力して出来る行動を実行する。それしか道はありません。
このシーンとセリフの表現の素晴らしさに、私は涙が止まりませんでした。
※余談ですけれども、パン(キリストの体)に赤いジャム(愛の色)を塗って食べながら誰かを想うという行為は、とても神聖な行為です。このシーンを観た時、ダニエーレ・クレスピの描いた絵画『聖カルロの食事』を思い出しました。
《買い物》
[大人視点]:盗んだマジックバンドを売ったお金でヘイリーとムーニーが買いものを楽しむシーンは、汚されてしまった自分たちの心や体を、物を購入することにより拭おうとしているように見えて、とても悲しかったです。
また、ヘイリーが盗んだマジックバンドを売りさばくという犯罪行為を行うときの空は曇っており、髪の色(《青》)は褪せています。背後に映る「STOP」の道路標識も切なかった。
《ボビーの判断》
[大人視点]:ボビーはヘイリーに何度も警告を発していたし、自分の立場で出来る行動は行ったと思います。ヘイリーが窃盗の罪を犯してしまったと知った時ですら彼女を助けました。この場面では、体を売ることも窃盗行為をすることも2度とヘイリーにさせまいと、モーテルのルールではなく、初めて自分のルールを適用します。それはムーニーの将来のことを考えての決断でもあったと思います。いわば最後通牒です。プライドを失い恐ろしいスピードで落ちてゆくヘイリーを、もう見て見ぬふりをすることが出来なくなったのです。ボビーの「何とかしてこの親子を救いたい」という強い気持ちを感じました。ボビーはその自分の決断が、ヘイリー親子を経済的にさらに追い込むことになるということを理解していたはずです。ある意味究極の選択を迫られたこの場面で、彼は101号室には入らずに、自分が心に深い傷を負う覚悟を決めて、親子と深く関わる道を選択したわけです。ボビーの服の色からは、彼がヘイリー親子をただの住人としてではなく心情的にはもはや父親として見てしまっていることがわかり、グッとくると同時に、とても辛い……(ヘイリーへの「君だけのスペシャル・ルールだ」というセリフには胸が熱くなりました)。
《サファリ》
ムーニーとジャンシーは、ベストフレンド。ケンカをしそうになっても、考え方が違っても、直ぐ仲直りして笑顔になれる。
[大人視点]:倒れていない大きな木の下で雨宿りをするメタファー全開のシーンや、牧場をサファリにしてしまうムーニー達の想像力爆発シーンに、様々なことが思い浮かびました。(長くなるので以下略)
《アシュリーボコボコ事件》
アシュリーをボコボコにしたヘイリーも悪いけれど、最初にヘイリーの心をボコボコにして、そのあとバカにして笑ったアシュリーはサイテーだと思う。
[大人視点]:アシュリーの過ちは対話を選択せずに、ヘイリーとの関係を自分の都合だけで一方的に切り捨て(愛するスクーティとの生活を守りたい気持ちがとても強かったことは良くわかりますけれども)、元友人でヘイリーの心中を察していたにも関わらず、その気持ちを考慮せずに、全くする必要のない侮辱をあり得ないくらい上から目線で実行してしまったことにあると思います(職のある者が無いものを見下し蔑む差別行為等)。
《児童家庭局》
児童家庭局が来た後のヘイリーは、ムーニーと暮らせなくなるとわかって、とても混乱していたみたい。ベッドで宇宙人のぬいぐるみにも襲われていたし……。TV番組のキャラクターも銃を突きつけられてて、なんか怖かった。
[大人視点]:アシュリーによる通報。これでアシュリーとヘイリーの関係は完全に修復不可能となりました。今後アシュリーは、ヘイリーの一番大切な存在を奪ったことへの罪悪感に悩むかもしれません。アシュリーのスクーティを守りたいという強い気持ちや状況もわかるし、ヘイリーの状況もわかるしで、ちょっとしたすれ違いからそのようになってしまった結果には、ただただ切ないです。
《雨》
土砂降りの雨は、ヘイリーの涙。
大人がおもいっきり泣くかわりに、おもいっきり笑うことがあるのを、わたし知ってる。
[大人視点]:ヘイリーのわずかに残っていた希望の火が消えてしまったことが、雨に濡れて消えてしまったタバコの火でわかります。
ヘイリーのパンツに「HEART BREAK CITY」の文字。
《掃除》
[大人視点]:ゼロに近い可能性にすがるように、そして自分の気持ちを整理するように、ヘイリーはムーニーと一緒に部屋を掃除します。壁の、とある文字だけは絶対に残しておくと話すヘイリーを見て、胸が締め付けられました。
《友情》
ジャンシーとムーニーが湖の前で肩を組むシーン大好き。
[大人視点]:大人になると、純粋な友情ってなかなか成立しなくなる。親友と思っていちばん長い時間を一緒に過ごしていた人が、実は自分のことを深い部分で全然理解してくれていなかったり、全く気にも留めていなかった人が、実は自分の一番の理解者だったりすることもある。大人にも魔法が解ける瞬間や、逆に魔法のかかる瞬間が、日々ある気がします。
《鳥》
ツルにまで「いい1日を」って話すボビーが好き。しかもツルにちょっと嫌がられてるのもめっちゃ面白い。
《お姫様ビュッフェ》
このシーンのムーニーの真似をして、苺と梅干の同時食いをしてみた(注:ムーニーはストロベリー&ラズベリーの同時食い)。意外と美味しかった。
[大人視点]:ムーニーに「またこようね」と言われた時のヘイリーの表情は、火事の現場で写真を撮られた時のムーニーと同じく作り笑いさえ出来ない状態で、ヘイリーのムーニーに対する罪の意識の重さが感じられて切ないです。
ヘイリーの帽子の「can we smoke weed in here?」のジョークがさらに追い打ちをかけていて、変な笑いを発してしまいました。
娘を愛する母親ならきっと誰もが、自分の娘をお姫様にしてあげたい気持ちがあると思います。このビュッフェシーンには、お姫様どころか一緒に居てあげることすら出来ない状況にしてしまったヘイリーの、悲しく切ない気持ちが、言葉ではなく映像と(心情とは真逆の)音楽によって完璧に表現されており、見事でした。
《引き渡し》
[大人視点]:ヘイリーの赤い薔薇(赤い薔薇の花言葉「Love(愛情)」)のタトゥーがもっとも美しく映える《白》のキャミソールを選択し、ビュッフェシーンではあえて画面から外していたタトゥーで、ヘイリーのムーニーに対する純粋な愛を映し出す演出が素晴らしい。そして2人はしっかりと手を繋いでいます。
ヘイリーは奇跡を信じていましたが、監視カメラの映像がその望みを完膚なきまでに打ち砕きます(ヘイリーの心理状態は、その後の彼女の表情と、舌をペロリと出した《緑》色の宇宙人のぬいぐるみ等で察することが可能です)。
児童家庭局の職員は無神経にもムーニーの前でヘイリーの罪を追及し始めます。その行為に対してボビーが配慮を促します(一体どちらが児童家庭局の職員なのか)。
部屋の外で児童家庭局の別の女性職員がムーニーの説得を開始しますが、嘘をつきまくる上に「もう大人ね。知ってた?」などと話す姿に、その立場は考慮するものの「よくもそんな嘘をペラペラと無感情に言ってのけられるものだ」と、その完全にオートマ化している対応に怒りがこみ上げてきます(職員は善良な人であるということは承知していますが、人間味のある対応であるとは感じませんし、どこまでも知性の低い対応と思います)。
大人達が誰も本当のことを言わない状況に不安を募らせ苛立つムーニーが、不憫です。
ボビーはもう自分に出来ることは無いと悟ってその場から立ち去り、動揺をなんとか抑えようと煙草に火をつけて、別に話す必要のない壊れた洗濯機の修理完了期日について他の住人に説明をします。にしても、壊れた「洗濯機」というメタファーをここでねじ込んでくるのは凄い……
ムーニーの説得を担当していた児童家庭局のふたりの女性職員の対応が下手過ぎて、ムーニーがついに怒りだします。あろうことか女性職員のひとりはヘイリーの所へ行き説得を手伝うように要請し(プロ意識が低すぎます)、ヘイリーの感情までも爆発させてしまいます。
怒りが爆発し感情を抑えきれなくなったムーニーは逃亡してしまい、それを知ったヘイリーが「で、私が母親失格?Fu○k you!」と叫びます。
この「Fu○k you!」は、ヘイリーの、アメリカの社会システム全般、そして仕事は持っていて金には困ってないものの人間性の希薄な人々に対しての、心の底からの異議申し立てなのではないかと感じました。
《ムーニーの涙》
ムーニーは全てを一瞬で奪われちゃった。それってものすごく辛いことだと思う。子どもなのに大人より強かったムーニーが泣いちゃうのも当たり前だよ……。
ジャンシーのTシャツに書いてある文字と、ジャンシーがムーニーにしてあげたことが、大好き。
[大人視点]:母親、親友、思い人(大好きな男の子)、住み慣れた部屋、遊んできた場所、信頼できる大人達、音、匂い、光……。6歳の女の子が一瞬にして、それまでの人生の全てを奪われる瞬間を目の当たりにしても、鑑賞者は何もすることができません。その鑑賞者に代わってムーニーを守るために勇敢に戦ってくれるのが、ムーニーの親友であるジャンシーであることは、とても素晴らしく、感情を大きく揺さぶられました。
突然ですけれども、6歳のSTARLETはここでお別れします。またね~!
第二部
【ラストシーン考察】
ラストシーンの解釈は「それぞれの観客の解釈に委ねたい」と監督のショーン・ベイカーは語っていますから、明確な答えは用意されておりません。しかしだからこそ、本作のラストには大きな価値があります。
何故なら鑑賞者の現実と、本作の物語は、繋がってゆくから……
個人的には、ジャンシーがムーニーの手を取って走り出すシーンからがラストシーンという解釈です。
ヘイリーがムーニーにかけていた魔法が解けてしまったところで、すかさずジャンシー&ジャンシーの祖母&ベイカー監督がムーニーに魔法をかけます。同時に鑑賞者は、自分もムーニーに魔法をかけてあげられる人間なのかどうかを試されることとなります。
本作のラストシーンは革新的で、ファンタジー的な要素と現実的な要素が入り交じり、観客の想像に全てを委ねるわけでも、監督から明確なメッセージがあるわけでもなく、大きな余白が用意されてはいるものの、しかし監督からのいくつかのメッセージは確実に情報として提示されているという、かなり複雑な構造となっているように思います。
ゆえに鑑賞者は監督のメッセージを読み取りつつも、各々が作品に参加し、自分独自のラストシーンを作り上げてゆくという作業を行う必要があるわけです。
上手く言えませんけれども、書籍でいうところの『らくがき絵本』五味太郎著のような感じで(塗り絵とは発想が違います)、ショーン・ベイカー監督との共同作業にて、一緒に映画を製作することとなるわけです。「どうぞご自由に想像なさってください」「これはこれこれこういうお話です」「この謎が解けますか?」ではなく、「楽しみながら一緒に作ろう!」という発想です。ですから「映画とは座わりながら完成品を観て楽しむもの」という一般に流布している「常識」のフィルターがかかっており、且つ受け身で映画を楽しむことを好む鑑賞者は、経験したこともなく望んでもいなかったこの新しい「参加型ラストシーン」に戸惑い、混乱してしまうわけです。本作のレビューに「ラストシーンが……」という言葉があふれているのはそういう理由です。
しかし楽しみ方をわからない人でも、一度理解をしてしまえば最高に楽しい時間を過ごせる手法です。例えるなら本作のようなラストシーンは、砂場に遊び道具と水が用意されていて「さぁ、遊んでいいよ~!」と言われているようなものだからです。
というわけで本作の「ラストシーン」では、自分の想像力や妄想力を最大限に発揮し、楽しく遊んじゃいましょう。
前置きが長くなりましたが以下に、私がショーン・ベイカー監督と一緒に遊んだ(共同制作した)ラストシーンを2パターン(「マジカル・イマジネーション・バージョン」と「マジカル・ファンタジー・バージョン」を)紹介したいと思います。本当は3パターンなのですけれども、そのうちのひとつは監督がそのような解釈を公の場で話すことを望んでいないことが判明したため割愛します。
また私の頭の中では、妄想した3つのラストシーンはそれぞれが独立していながら、最終的には1つに纏まり『フロリダ・プロジェクト』のラストシーンとして存在しております。
『The Florida Project』ハッピーエンディングガイド
まず、2つのラストシーンに共通する情報等を紹介しておきます。
[1]:ジャンシーとムーニーのTシャツに書かれている文字
ムーニー 「Follow your dreams」
ジャンシー 「I love my BF !」(BFは作品の状況から「Best Friend」と読みたい)
[2] ジャンシーとムーニーの服装の配色や柄の意図について
結論から記すと
ムーニー(《青》がメイン) = 「ディズニープリンセス」 + 「シンデレラ」
ジャンシー(《赤》がメイン) = 「愛」に溢れムーニーのために「戦う」人 + 「王子様要素&ディズニープリンセス要素」 + 「ミニーマウス」
という感じです。
以下、「ディズニープリンセス」「ミニー・マウス(ジャンシーは女の子ですからミッキーではなくミニー)」を意図しているとする理由を記します。
ムーニーとジャンシーがディズニー・ワールドに向かって走っていく途中に、「ディズニープリンセス」という概念を明確に定着させるきっかけとなったディズニー・ルネサンス第一作『リトル・マーメイド』のアリエル(本物はジャンシーと同じ赤毛)を模したギフトショップのキャラが意図的に映されます。また、ミッキーマウスやミニーマウスの形を模した電柱も意図的に映されます。さらにジャンシーの服の犬の絵のリボンは「ミニーマウス」を連想させます。
ムーニーは星柄のバミューダショーツを着ていますが、映画の『シンデレラ』で、シンデレラに魔法がかけられるシーンでは星がキラキラと舞います。
あとTシャツの柄は「月夜」と「星」ですが、シンデレラが舞踏会に向かったのは夜です。また、映画のシンデレラのドレスは星がキラキラ輝いています(アニメ版も実写版も)。そしてムーニーはシンデレラ城へと向かいますので、「シンデレラ」と言えるわけです。
さらに、それらのキャラクターはディズニーのメインキャラクターでもあります。ゆえにラストシーンのディズニー・ワールド内の映像において、ムーニーとジャンシーこそが主役であると示すことにもなるわけです。
そしてふたりは、ディズニー・ワールドの直ぐ傍に住む低所得者を描いたこの作品の主人公たちでもあるわけです。この作品のタイトルの意図を思い出してください。そう、ダブル・ミーニングです。
それから「星」は神や神性を表すものでもあります。キリスト教では東方三博士が星に導かれてイエスの生誕を知り馳せ参じ、イエスは「輝く明けの明星」、聖母マリアは「海の星」と呼ばれます。聖母は12の星の冠を被ったり、マントの肩に星が描かれることもあります。
「月」は聖母マリアの象徴です。西洋絵画には「無原罪の御宿り」という主題があります。聖母の足元に上弦、または下弦の月を描き、聖母マリアが他の人間と違って原罪を持たずに生まれたという教義を示すものです。個人的にはとりわけ、ムリーリョの描いたものが好きです。↓
色の配合もムーニーやシンデレラと似ていますね。ムーニーのTシャツにも下弦の月(三日月)が描かれています。ですので、ムーニーには「聖母マリア」的なイメージも付加しているように感じられます。
[3]ラストシーンに到るまでに提示されている情報を思い出して整理する
《ファーストカット~物語の始まり》の、《紫》の壁のシーンを思い出していただきたいのですが、時間軸の「過去」を示す画面左側は影になっていて暗いのですけれども、「未来」を示す右側には光が射していました。考察の最初にも記しましたけれども、その時点でこの作品の未来(ムーニーたちの未来)のハッピーエンドは暗示されているわけです。
しかし、あの最悪の状況からヘイリーがどのようにして立ち直り、ムーニーと暮らす為の状況を作ってゆくのか、その理由付けが必要になってきます。それを以下にて説明させていただきます。
ヘイリーはあのあと間違いなく逮捕され(劣悪な社会システムという悪い魔女の罠に嵌り囚われ)ます。そして一度全てを失います。そこで、その後どうなるかということが重要になるわけですけれども、私の考えではヘイリーは経済的な基盤が出来るまで(もしくは基盤が出来た後も)、ジャンシー達と一緒に暮らすこととなるのではないかと思うのです。
まず、ジャンシーの祖母の人柄がキーポイントとなります。祖母はキリスト教徒であり、ヘイリー達が泊まる場所がなくて困っていた時も助けてくれました。また、ムーニーとジャンシーは大親友ですので、ジャンシーはムーニー達を助けてあげて欲しいと間違いなく祖母に懇願するはずです。引っ越してきて友達の居ないジャンシーに対して、ヘイリー親子は誕生日を祝うなどジャンシーに家族のように接していたという経過(伏線)もあります。加えて祖母はムーニーが大泣きした場面も見ていますから、その件とこれまでの事情をボビーやヘイリーに聴くなどして間違いなく把握することになるでしょう。そうなると祖母に、ヘイリー親子をなんとかしてあげたいという情が動く可能性は高いのではないかと考えられるわけです。部屋の広さが問題になりますが、日中ヘイリーは仕事をするでしょうし、夜寝るのは床でなんとかなるはずです。
ヘイリーはもう一度ムーニーと暮らすために必死で働くと思いますし、ジャンシーの祖母から言葉遣いや外見、料理、お金の管理、子どもの躾スキル等も真剣に学ぶはずです。ヘイリーの仕事に関しては、祖母が車を所持していますから送迎を頼むことも可能となり、そうなれば職場の選択肢は増えます。
もちろんジャンシーや祖母達にもメリットがあります。ヘイリーはムーニーの分までジャンシー達を可愛がってくれるでしょうし、祖母からしてみれば自分の年齢を考えると、もし自分に何かが起きた場合にジャンシー達の面倒を見てくれる人が居るとかなり安心することが出来ます(ジャンシーの母親と父親は頼りになりませんから)。さらに、今後お互いの子どもたちが成長してゆくことを考えて、中規模の部屋をシェアすることも視野に入れながら生活することも可能となります。
ヘイリーとジャンシ―の祖母の関係を観ていると、ヘイリーとジャンシ―の祖母は、互いに母親と娘の存在を求めているような雰囲気も感じますし、相性もかなり良いです。
トドメは、祖母が最後に着ていた服の色等があります。服の配色、年齢、体型、がシンデレラの魔法使いとそっくりなのです(アニメ版)。ですからジャンシーの祖母を、ヘイリー親子を幸せな未来へと導く手助けをしてくれる魔法使いのような存在として位置付けることには、きちんとした根拠があり、ヘイリーが立ち直るきっかけは作品内にしっかりと提示されているということも言えるわけです(あくまでも個人的な解釈です)。
ヘイリーは深い「愛」を持った女性です。ただ、その生かし方を知らないだけです。私にはヘイリーがマグダラのマリアに見えました。
ちなみに、ヘイリーの右の首筋には「星」のタトゥーがあります。そのことを考慮するなら、本作の物語は、ヘイリーの改心と復活への始まりまでを描いた物語でもあるのではないでしょうか。
大切なことなのでもう一度記しますけれども、「終わり」ではなく「始まり」の物語です。
《ハッピー・エンディングガイド》PART1
『マジカル・イマジネーション・バージョン』
ジャンシーはムーニーの手を握った瞬間、一瞬祖母の方を振り向きます。そのとき祖母は、画面には映っていませんが、「一緒に行ってあげなさい」という感じでジャンシ―の目を見て頷いていたのではないかと思います。ジャンシーと祖母の阿吽の呼吸です。
走り出したムーニーとジャンシーは幸せな未来へ向かって、アメリカの抱える、移民問題、ファストフード&ジャンクフード(健康)問題、銃の規制問題、企業による政府&社会の支配、等の問題を解決(クリア)しながら走ります。「希望」のような、なんとなく他人任せな雰囲気を持つ魔法の言葉には頼りません。しっかりと手をつないで自分たちの足でもって駆け抜けていきます。ディズニーの提供するまやかしのメディアもふたりを立ち止まらせることは出来ません。
そしてふたりはディズニー・ワールドの園内に突入します。マジックバンド(お金を払う行為)は必要ありません。ふたりはディズニーが誇る主役キャラであると同時に、更にそのワンランク上の特別な存在でもありますから余裕の顔パスです。
そしてムーニーとジャンシーが、王子様(金持ち男性)やディズニーの魔法に頼るのではなく、自分たちの力でシンデレラ城(家族と住む幸せな家)での生活を勝ち取ることを暗示し、お城へと走りゆくふたりの後ろ姿(勇姿)で物語は幕を閉じます(しかも幸せそうな家族を映すことにより、ふたりが将来、幸せな家庭をもつことへの祈りも添えます)。
流れる曲は『Celebration』(意味:「祝う」「賞賛」)。
ハッピーエンド。
補足情報
上記のラストシーン解説で「どこからその話が出てきたの?」という部分を解説いたします。
●「アメリカの抱える移民問題」
モーテルの出入り口にある看板に「American owned」と書いてある看板があります。その施設がアメリカ市民によって保有されていますと示すためのものです。これは、アメリカの市民権を持たない移民の人々によって経営されている施設との差別化を図るための表示で、詳しい説明は省きますが、複雑な移民社会の問題が垣間見えます。
●「ファストフード&ジャンクフード問題」
気球の所を2人が通り過ぎるときに、「IHOP」という看板があります。これは、アメリカ合衆国を本拠とするレストランチェーンで、いわゆる「ファストフード&ジャンクフード」を提供しています。アメリカの肥満率は非常に高く、特に低所得者は高カロリーで栄養価の低い外食や加工食品に頼る傾向があり、心臓病や糖尿病をはじめとする成人病による医療費は国家の財政を圧迫するまでに膨らんでいます。また、乱れた食生活は、大人から子どもまでを含めた身体的な健康被害の問題のみならず、子どもたちの発達障害にまで及んでいると言われています(この作品で監督が、子どもたちにシュガーフリーの食べ物を与えて撮影しているのは、そういう事情も考慮してのことです)。
アメリカの食に関する問題は、国の未来を揺るがすほどの大きな社会問題のひとつです。また健康問題のみならず、環境破壊や貧困層からの搾取にも通じています。
●「銃の規制問題」
自動小銃の絵の描かれた「MACINE GAN AMERICA」の看板はラストシーンのみならず、劇中の他のシーンでも意図を持って登場しております。
特に低所得者の住む地域では、銃による犯罪が多発する傾向にあり、銃の乱射事件も後を絶たず、子どもたちの未来を考えるうえで重要な社会問題となっています。
麻薬売買等の争いに巻き込まれて命を落とす人も少なくありません。
●「企業による政府&社会の支配」
アメリカはもはや政府が国を動かしているのではなく、企業が裏で政府を操って、国を動かしています。またそのことは、アメリカ国民の知識層の周知の事実となっております。
「DISNEY GIFTS OUTLET」ショップは、そういうアメリカの社会状況を象徴しているように感じました。スパイダーマン(スーパーヒーロー=正義)も、ディズニー・プリンセス(夢を壊したくないため詳細は伏せます)も、兎に角「SALE=お金」「SALE」「SALE」「SALE」「SALE」です。
●「希望」
ディズニー・ワールドの「希望」と名付けられた花火を見た場所(駐車場のところ)を走り抜けますよね。
●「ディズニーの提供するメディア」
ミッキーの電柱と電線は、ディズニーチャンネル等のディズニー・メディアの象徴という解釈をしました。ディズニーの提供するメディアには、子どもたちをTVの画面に引き寄せてキャラクター商品の購買意欲を煽る目的があります。夢の無いことを書いてしまって申し訳ありませんけれども、ディズニーは巨大企業であるという事実は明確にしておく必要があります。
ちなみにムーニー達はディズニーのキャラクター商品を扱うギフトショップの前も、ショップに一瞥もくれず走り抜けます。
●「更にワンランク上の存在」
ラストシーンにて、ムーニーとジャンシーは、この作品の主役もディズニー作品の主役も超越した存在として描かれています。そのような描き方をすることで、作品の内容を超えて様々なことに想いを馳せて欲しいという監督の意図を感じます。
ふたりはディズニー・ワールド内でマジックバンドを身につけていない姿で撮影されていますけれども、その辺りにもきちんとした意図があると見て間違いないでしょう。他のお客さん達との違い(経済的な違い&存在的な違い)を明確にすると同時に、そうすることにより余白を大きく取り、ラストシーンの解釈の幅を最大限に押し広げているのです。
ちなみに現実的に考えれば、どう考えてみてもふたりはディズニー・ワールドには入れません。お金が無いからです。でも顔パスで入っています。では、ふたりはどのようなことに対するメタファーなのでしょう……。ということです。そしてその答えは、それぞれの鑑賞者のかける魔法に委ねられています。
ショーン・ベイカー監督は、本来はお金が無くて入れないはずのムーニーとジャンシーをディズニー・ワールドの中へ入れてしまいます。鑑賞者に至っては、ラストシーンを一緒に制作する仲間として映画(作品)の中へと招待してしまうわけです。
そんな映画がかつてあったでしょうか。私は初体験でした。
《ハッピー・エンディングガイド》PART2
『マジカル・ファンタジー・バージョン』
ジャンシーがムーニーの手首をつかんだ瞬間、一瞬祖母の方を振り向きますけれども、そのとき祖母は、シンデレラに魔法をかけた魔法使いのようにふたりに魔法をかけたのだと思います。
ふたりは魔法の力によって現れた、見えない馬車に乗り、ディズニー・ワールド内のシンデレラ城へと向かいます。
馬車は、ディズニー関連のもの等から魔法のパワーを集めつつ走ってゆきます(途中からムーニーはジャンシーに手首を引かれて走るのではなく、一緒に手を繋いで走っており、笑顔も取り戻しております)
既に魔法がかかっている状態のシンデレラとミニーなふたりに、マジックバンドは必要ありません。入場ゲートは余裕の顔パスです。
そして、素敵な未来の待つシンデレラ城へと入城するふたりの後ろ姿で、本作は幕を閉じます(幸せそうな家族を映すことにより、ふたりが将来、幸せな家庭をもつことへの祈りも添えます)。
流れる曲は『Celebration』(意味:「祝う」「賞賛」)。
ハッピーエンド。
補足情報
上記のラストシーン解説で「どこからその話が出てきたの?」という部分を説明します。
●「祖母の魔法」
ジャンシーの祖母の服装は魔法使いのお婆さんと酷似していますけれども、それ以外にも魔法の存在を予感させる要素はいくつもあります。
例えば、ジャンシーの住んでいる部屋のドア周辺には、シンデレラが魔法で変身する場面に登場するものを連想させる物が複数あり、その配色も考えられています。隣家のドアの所に置いてある植木鉢や、ジャンシーの部屋の前に外置きしてあるイスやキックボードは、色や形からカボチャの馬車やそれを引く馬を連想させますし(カボチャを連想させる鉢植えはふたりが走り出したときに消えています)、室内の、調理器具の後ろの壁の上部には、蝶(実写版の変身シーン参照)の壁飾りがあります(蝶は「魂の復活」を表す絵のモチーフとしても有名ですよね)。
●「見えない馬車に乗って」
ジャンシーの住居からディズニー・ワールドまでは、花火を見に行った時にヒッチハイクを利用していたことからわかる通り、かなりの距離があります。とても子どもふたりがノンストップで走っていける距離ではありません。なので、見えてはいませんけれども魔法の馬車に乗っていると解釈したわけです。走り始めたときに自転車が転がっているのは「自転車よりも速いスピードにてふたりはディズニー・ワールドへ向かいますよ」という意味かもしれません。また、この一連のシーンの画像はコマ抜きがなされていて、かなりスピード感があります。
●「色々なディズニー関係のものからパワーをもらって進み」
・全体的に《青》と《紫》が多めの色構成。ディズニーのプリンセスパワー&魔法パワーを感じさせる色です。
・『リトル・マーメイド』のアリエルを連想させるギフトショップのキャラが強調されますが、その作品の内容もムーニーたちに深く関係している気がします。挿入歌はこんな感じです↓
・虹色の気球。虹や上昇を予感させます。
・「Friendship FAIRE」の看板。そのものズバリな言葉の意味。また、ディズニーのシンデレラ城前で上演されている、「Mickey's Royal Friendship Faire」という名前のミュージカルの存在も忘れてはいけません。
・ギフトショップのスパイダーマンとアリエルの絵は、ジャンシーとムーニーの位置とリンクしています。ムーニーの好きなスポンジ・ボブもいて、この場面、ムーニーは笑顔です。また、ヒーロー(王子様)に救い出されたお姫様(ヒロイン)みたいな雰囲気を作り出しています。
・ディズニー・ワールドの「希望」と名付けられた花火を見た場所(駐車場のところ)を走り抜けますが、ここでふたりは「希望」を入手します。空を見てください。ここから「青空」が登場し始めます。進行方向にある青空の《青》は、たぶん着色して非現実感を出しています。駐車場の外灯の柱「現実」と「ファンタジー」の境界線となっているようにも感じます。
・《紫》色のミッキー&ミニーマウスの顔型電柱の所。ここでふたりは、ディズニーの提供する魔法の力も得て、完全にファンタジーの世界に入り込みます。
・2本の《紫》の支柱。ディズニーが誇る魔法の世界へ到着したことを強く感じさせます。
・園内。黒Tシャツの男性の、青と赤のマジックバンドの色をふたりの服の色にリンクさせ、ふたりの存在自体がマジック(魔法)であるということを控えめに暗示。また、大量の風船は上昇を感じさせます(園内撮影での偶然の積み重ねを、必然に変えてしまうショーン・ベイカーの映像マジックが凄い&素敵すぎ!)。
・シンデレラ城。背景の空は差し替えているのではないかと思うくらい、色や雲が作り物っぽくて非現実的です。また、シンデレラ城を映すラストカットの構図は、現在のディズニー映画開始時のタイトルロゴの画面とほぼ一致します。それには「どん底の状況からムーニーとジャンシーがお姫様になる(ディズニー作品のような)夢のような物語がこれから始まります」というメッセージとも受け取れます。
ですから本作のラストは「終わり」ではなく「始まり」なのです。
以上、『The Florida Project』ハッピーエンディングガイドでした。
※もちろんエンディングは鑑賞者の数だけあります。さて、皆さんはどのようなエンディングを思い浮かべましたか?😊
【エンドロール考察】
本作は「セミドキュメンタリー風の世界」→「非現実の世界(ラストシーン)」→「現実の世界(エンドロール)」という順番に構成されている気がします。
またエンドロールには鑑賞者を「非現実」の世界から素早く「現実世界」へと連れ戻す役割が付与されており、作品の余韻を楽しむのではなく、その余韻が残っているうちに、この物語で描かれた「現実世界」の社会問題について考えてほしいという監督の意図が窺えるように思います。
エンドロールに到るまで、あらゆる色彩を駆使してきたにもかかわらず突然暗転させ、そのまま《黒》一色の画面で終わらせるという行為には何かしらの意図と理由が必ずあるはずです。
この《黒》の解釈は鑑賞者によって意味が違ってくると思いますが、私にとっては「自分以外の人々について考えるための黒」、「子どもたちの未来について考えるための黒」、「より良い社会システムについて考えるための黒」でした。その《黒》は、まだ見ぬ未来の不確かさを象徴しており「この先の社会(未来)がどうなるかは私たち次第です」というメッセージも、込められているように思います。
次に、《黒》の背景というキャンパスの上に配置された《音》について考えてみます。
並の作品なら『Celebration』を流し続けるでしょうけれども、本作はそのような選択はしませんでした。それはたぶん、作品にて描かれていた社会問題(社会システム)に対する疑問や指摘を、鑑賞者に、現実世界でも共に考えて欲しいと呼びかける、高い志があるからです。そのようなわけで本作は音楽を切ってしまいます。背景を無くし、一度無音にすることにより、本編の物語との間に沈黙による境界線を引き、鑑賞者を虚構から現実へと一気に引き戻すのです。そしてリアルな「人々のざわめきの音」を配置することで、作品世界から現実世界へと余韻覚めやらぬ内に、物語世界を現実世界と繋いでしまいます。この演出には最高に痺れました。
ラストシーンの制作を鑑賞者と共有し、最後は「ムーニーやジャンシーのような境遇の子どもたちやその親たちを手助けするために、社会問題の解決に向けて、私たちに何が出来るのかを一緒に考え続けてゆきましょう」と、作品どころか国も言語も年齢も立場も性別も何もかもを超えて、静かに語りかけてくるわけです。
黒い背景の闇の中に、小さな、しかし力強く輝く星の光を感じました。
魔法のエンドロールに、胸がどこまでも熱くなります。
補足情報
エンドロールの音は、子どもたちの声が中心となっています。そして注目すべきは、地面を掃く「ほうき」の音です。また、最後の最後に『蛍の光』をアレンジしたと思われる曲が少し流れます(音はディズニー・ワールド内で採取したものが中心なのかもしれませんが、別取りの音(ほうきの音)をミックスしている気もします。
エンドロールにもダブル・ミーニングの存在を感じました。
●掃除が始まっていて『蛍の光』が流れるということは、何かの終わりを感じさせます。
ディズニー・ワールドがその日の営業を終えて人々は遊園地を後にする=映画が終わり、観客は映画館を後にする。
●もう一つは、「あらゆる意味で汚れきったこの社会を、ひとり一人が自分に出来る小さなことを日々実行し(ほうきを手に清掃するようにみんなで世の中を掃除して整え)、子どもたちの未来のために美しい社会にしていきましょう」というメッセージ。
掃除は世界中で日常、宗教を問わず大切な行為として認識されています。日本語でも「清掃(掃き清める)」という言葉がある通りです。
例えば仏教には、釈尊が周梨槃特に一本のほうきを与えて、東方に向けて「塵や垢を除け」と唱えさせながら精舎を清掃させ、周梨槃特はその行為により「汚れの落ち難いのは人の心も同じである」との仏の教えを悟り阿羅漢果を得たとされるエピソードがあります。
キリスト教においても何かエピソードがあるかもしれません。
ちなみに『蛍の光』の原曲のキーワードは「友情」です。
「子どもたちの声」は、「未来」「活力」「感性」「行動力」「愛の結晶」etc.の象徴ではないかと感じます。
【おわりに】
貧困問題を含む社会問題を解決する方法として、様々な方法やアプローチがあると思います。本作はそのいくつかの良質な回答をとても控えめに、そっと、しかし明確に、鮮やかに伝えてくれています。
3回目となった今回の鑑賞後、私の頭に浮かんだのは「ベーシック・インカム」「ヴェルグル労働証明書(「エンデの遺言~根源からお金を問う~」YouTubeにて視聴可能)」「中村哲さんのアフガニスタン支援のアプローチ」「自分のボラティア活動の年間回数と質」「フィンランドやマリア・モンテッソーリの教育方法」「定常経済について」etc.
心に強く響き続けるメッセージを持ち、現実の改善に向けて様々な思考を促す『The Florida Project』は、きっと100年後にも輝きを放ち続け、傑作として語られ続けていると思います。
ショーン・ベイカー監督、素晴らしい映像体験をありがとう!
ෆྉꈍ ◡ ꈍ ☆.。.:*・゜💗
本レビューを、今この瞬間にも苦しい境遇の中で懸命に生きている人々、そして本作の制作に関わった方々へ、捧げます