4冊目「君の名前の横顔」
今回はできれば早く読了してオンライン読書会を視聴しようかと思っていましたが結局間に合わず。仕事も忙しく視聴参加もできず、読了ツィートをするのが精一杯でした。色々感じさせられた作品で、ようやく落ち着いて感想記事にできましたが、ちょっとおかしな思考ではないかと少し不安に感じていますが、よければどうぞ。
君の名前の横顔
著者:河野裕 出版社:株式会社ポプラ社
装幀:鈴木久美 写真:小嶋叔子 撮影協力:後藤嶺冴
「自由への第一歩」作品のイメージ紹介
最近自分の中で恒例のようになってきていますが、作品のイメージ紹介が詩のような表現でふわっと頭に浮かんでくるので書いています。私の印象ではこんな感じですので、これで読んでみようかとか思って下さったら幸いです。
目をそむけたくなる
悲しさやつらさに
ぼくの世界は
意味と色を失っていった
黒く塗りつぶされて
しまわないように
白やきれいな色を塗り続けていたら
世界は形を変えながら戻ってきた
それでもどこかに
いつも何かを忘れているようだった
いくつかの絵の具は
落としてしまったのか
使い切ってしまったのか
過去は灰色のままだけど
あなたのあたたかさに触れて
今が鮮やかに色づいてきて
だからぼくはきっと
未来に向かって歩いていけるんだ
ここからは色々考えたことを書いています。何かの役に立てばいいのですが…どうでしょうか。
ジャバウォックはいつでもみんなの中にいる
本作では『鏡の国のアリス』に登場する怪物の名前を持つ『ジャバウォック』は目をそむけた存在を盗んでしまうまた別の怪物的存在として描かれています。
その存在の意味はきっと<もう一人の自分ともいえるような存在>なんじゃないかと思っています。よく漫画やアニメで描かれる天使の自分と悪魔の自分というのがあると思いますが、そんな風にたくさんの自分がいてその自分同士の戦いの中で、ひとりひとりが倒れていくたびに世界は色を失っていく。そしてその過程でその一つ一つは忘れ去られていってしまう。そんな悲しい存在なんだと感じています。
自分の中のジャバウォックを認識し取り戻すことで、色々な自分を認めることができて初めて世界あざやかに色づいていくのだと思います。こんなことを考えているとストーリーは全く違いますが、映画「カラー・オブ・ハート」の映像をふと想い出していました。
<閑話>脇道に逸れた妄想
まさか僕の頭の中はジャバウォックに塗り替えられたのだろうか(苦笑)下記内容は、私の妄想ストーリーですのでご注意ください。
気が付けばこんなことに。「そんなわけねーだろ」と怒られそうですね(^^;最近妄想が過ぎているのか我に返るとびっくりするほど時間が経っていたりします。ちょっと自分があぶない人になっていってやしないか不安になっています。閑話休題、本来の感想の続きを書かせていただきます。
名前という名の牢獄
タイトルの一部でもある<名前>。名前ってやっぱり囚われてしまうのだなって…思わず考え込んでしまいます。作品中で「梓」や「楓」など名前の由来や意味について描かれているところもありますが、生まれてくる方には選べず、呪いや牢獄のようでどこまで行っても逃れないようで。もちろん悪い意味ばかりではないのでしょうが、そんな名前にまつわる想いが描かれた作品でもあると思います。
ずいぶん昔のような気もしますが「悪魔」なんて名前をつけられた人の報道があったことを思い出したり、漫画やアニメにちなんだ名前がついた人を見かけたり。キラキラネームとか。印象だけで判断されたり。男っぽいとか女っぽいとか。仕事の場では、役職だったり肩書が名前に変わるものになってしまったり。
その人がその人であれば、もはやなんだっていいんじゃないかと私は思ってしまっていますが、存在にこれほど影響のあるものってなかなかないですよね。ことわざとしての意味は違いますが、名は体を表すとはよく言ったものです。名前が存在を変えてしまいかねないわけですから。
再構築と自由への道
残念ながら、名前に囚われた当の本人にとってはどうでもいいなんてことひとつもなくて、呪いの牢獄からの解放への道はどうもつらく悲しいもののように感じます。血縁や名前の牢獄から抜け出すためには、自由への道を一歩一歩時間をかけていかなければならないのではないかと考えていました。
一歩目:目を背ける
二歩目:忘却する
三歩目:創造する
四歩目:破壊する
五歩目:再構築する
六歩目:向かい合う
七歩目:許しあう、受け入れあう
これは突然思いついた表現ですが、ちなみにこの道の表現が出てきたのはなんだろうと考えてみたら、FPSゲームブラックオプス2で刑務所を脱獄するシーンがあるのですがきっとその時に「これが我らの一歩目~」っていうレズノフの台詞を想い出したせいです(苦笑)古いゲームなのでプレイ動画ぐらいしか情報は残っていないかもしれません。本作品ではこの五歩目までがメインで描かれていて、物語にはまだ描かれていない続きがあると思っています。ただつらく悲しい部分だけでなく、これからの希望が見えるこの終わり方はやはりポプラ社の作品だなと感じる部分でもあります。
そして自由へ
「許しあう、受け入れあう」という最大の一歩を踏み出すことができるかどうかは、すごくありきたりで陳腐かもしれませんが、誰かと「愛し合う」ことができるかどうかにかかっていると思います。新しい母親の名前が「愛」というのは偶然ではないでしょうが、母親からの愛ではなく、楓も冬明も誰かと愛し合うことで、許し受け入れあうことでき、いつか自由になってくれればいいなと願ってやみません。