朗読舞台『池袋裏百物語』観劇レポ 弔いと祈りの物語
2021.09.12、舞台『アリスインデッドリースクール邂逅』昼公演と朗読舞台『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』夜公演に参戦してきました。
前者の感想は、こちらに。
そしてこのnoteは後者、『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』の感想レポになります。
前者のnoteを読まなくても支障がないように書く予定ですが、私が『池袋裏百物語』原作・脚本の紅玉いづきの15年来のガチオタクだってことだけは把握しておいてください。
あと、いつもはもうちょっと「分からない人にも分かってもらえるように」と思いながら書いてるんですけど、今回ばかりは「分かってもらえなくても、書きたいことを書く」と思って書きました。
伝わらなかったらごめんね。伝わってたらいいな。
『池袋裏百物語』概要
まず、原作はこちら。『小説現代2021年9月号』掲載。
紙の書籍は完売したようですが、電子書籍で購入することができます。
朗読舞台のほうの、公式の案内はこのページ。
https://tree-novel.com/sp/works/episode/c6d4eddad58aacf7e11dfa17ac47b554.html
キャラクター、キャストは以下。
※キャストは4公演それぞれ異なりますが、ここでは私が観た12日夜公演の配役です。
9月20日まで、dTVでアーカイブ配信があります。
そして物語のおおよその流れは以下の通り。
私の解釈なので若干の違いがあっても見逃してください。
舞台の公演を直前に控えたあるカンパニーが嵐に見舞われ、池袋にある会場・ミクサライブで一晩過ごすことになった。
カンパニーの人々は夜明かしのために、100の怪談を語り合う「百物語」を行った。
100番目の階段を話し終えたその場所で怪異が起こり、舞台『まぼろしの女』は上演中止となった。
その後、この公演の演者たちは皆表舞台から姿を消し、唯一残った脚本家も別の公演で盗作を指摘され炎上、その身を追われることとなる。
かくして、『まぼろしの女』の再演は叶わぬこととなった。
――この時の百物語が後に、『池袋百物語』と呼ばれるようになった。
『池袋裏百物語』は配信サービス「ダッカーポ」で人気の配信だ。
その配信主・江戸は『池袋百物語』の当時の音源を持っていると言う。
「もう一度、『池袋百物語』を始めましょう」
毎日一話ずつ語られる百物語。あの日の夜の再現。江戸の語り部としての魅力も相まって、配信は日に日に人気を増していった。
都内のある大学に、「都市伝説ゼミ」と揶揄される研究室があった。
明烏准教授の専攻は「インターネット上の呪い」。
そこに、山本と名乗る青年が相談を持ち掛けてきた。
「『池袋裏百物語』の配信者、江戸くんを救ってほしい」
山本は江戸の信者であり、その行きすぎた愛故に江戸のことを調べ上げていた。
一度は自ら江戸を救おうと犯罪まがいの妨害行為にも手を出したが、江戸のバックについた桜庭に返り討ちに遭い、命は見逃す代わりに江戸に近づかないという誓約書を交わさせられた。
だから、代わりに江戸くんを救ってほしい――
これまでの『池袋裏百物語』はミクサライブで語る江戸を配信する形だったが、最終話である100話目の配信は同会場で客入れをして行われるという。
山本の話を聞いた明烏は、助手(アルバイト)の久陽を連れてミクサライブへ向かった。
100話目の配信が始まる中、明烏がそれを遮り、江戸と『池袋百物語』の呪いを解き明かしていく。
『池袋裏百物語』感想
会場のミクサライブに入ったのは初めてだったけれど、その場所はとても馴染みのある場所だった。
池袋、サンシャイン60通りのど真ん中。
高校の頃、友達とここの1階にあるゲーセンで遊んだり、家族で映画を観たりした記憶が色濃くある場所だった。
映画館がなくなり、代わりにできた新しい会場がミクサライブだった。
会場に入り、その正面に並んだロウソクの多さに身震いした。
下手側後方の席に座り、落ち着いて舞台を見てみると、それがロウソク型の照明器具であることに気づいた。
そりゃそうだ、ホンモノだったら扱いが大変すぎる。笑
ニセモノだと分かっても、その空間における異様な雰囲気というのは変わらず感じられた。背筋がぞわぞわとするような、怪しさ。妖しさ。
昼間に見た『デッドリー邂逅』は男性客が多かったけど、『池袋裏百物語』は99%女性客だった。
ここに来る前にWikipediaでキャスト名を検索していて、知識の浅い私でも知ってるキャラクターが結構いたから、第一線で活躍されてる男性声優さんたちなんだな、とぼんやり思っていた。
「〇〇が吸って吐いた二酸化炭素を吸えるんでしょ?最高じゃん」って声がどこからか聞こえてきて笑った。〇〇の部分は聞き取れなかった。
定刻になり、ロウソク群の後方から5人のキャストが現れた。
原作で読んでいた紅玉いづき作品の世界観が、そのまま目の前に広がっていく。
紅玉いづきの描いた物語が目の前で「生み出されていく」。
文字に命が吹き込まれていく。
今、まさに、ここに生まれているのだ、と思った。物語が。
いつもならば自分で文字を目で追い、頭の中で世界を想像していた、その物語が、今、私の想像力を超えた次元で生まれている。
そんな実感があり、興奮が止まらなかった。
脳内から興奮物質がドパドパ放出されていた。
このセッションは、ほぼリハーサルなしで行われていた。
5人の掛け合いを事前にほとんど練習しておらず、個々の練習と当日1度きりの舞台で披露された。
……ということをアフタートークで聞いて、震えた。
本当に、「目の前で今、生まれている」と感じたのは間違いではなかったのだ、と思って、震えた。興奮した。
物語の中心となる舞台は、池袋ミクサライブ。
そう、この朗読舞台の会場、そのものだ。
我々観客は朗読舞台の観客でありながら、劇内における「江戸の『池袋裏百物語』の100番目の怪談を聞きに来た観客」というモブキャラクターでもあった。
そしてこの朗読舞台をdTVの配信で見ていた視聴者は「 江戸の『池袋裏百物語』の100番目の怪談をダッカで見ている視聴者」であった。
江戸が語るのに合わせて、ロウソク型の照明がぶわっと点灯した。
その明かりに吸い込まれるように、溶け込むように、リアルと劇内の世界が重なり合う。
「リアリティ」なんて言葉では足りない、リアルと非実在の境目が曖昧になる、その感覚に、興奮せずにはいられないでしょう?
愛してやまない作家の、その物語の一部になれるだなんて。
そしてここまでの興奮をもたらしているのは、この世界をこの世界たらしめているのは、何より5人のキャストの技量によるものだった。
朗読舞台は「朗読」と名がついていても、やはり「舞台」であった。
声だけでなく、キャストのその一挙手一投足が物語を作り出していた。
桜庭はそのまま、桜庭だった。
声から悪そうな人柄が滲み出ていて、言葉の一つ一つに怒気が強く篭っていた。一瞬たりとも隙がなかった。
スポットライトが当たっていないときでさえ、その柄の悪い座り方が桜庭そのものだったから、まさにこの場に桜庭がいる、という感覚だった。
金髪と派手柄のシャツもその桜庭というキャラクターにとてもよく似合っていた。
山本は興奮すると声が大きく、そして高くなった。自分にも心当たりのあるオタク的な喋り方だ、と思った。
自分に似ているものを見ると、嫌悪感をもよおす。それはそれだけ山本というキャラクターが実体に近いからこその感覚だ。
勇敢さではない積極性、陰気でありながら行動派。非合法な行為を自分の理屈で正当化する身勝手さ。
そんな危うさが言葉の端々に現れていた。
江戸は前髪が長く、目元がほとんど見えなかった。その不気味さが江戸というキャラクターに似合っていた。
江戸の「語り」は、我々を「そちら側の世界」に引き摺り込ませた。
百物語のうちの一つ、『階談』を読み上げた際の踏切の音、「かぁーんかぁーんかぁーんかぁーん」と言う江戸の妖しい声が今も耳にこびり付いている。
『ゴーストクラップ』を読み上げているとき、江戸が視線をふと下手側後方に向けた。私の斜め後ろの方だった。
「ゴーストのいる、壊れた座席」がそこにあるのだと、その視線が語りかけてくる。
私は後ろを振り向こうか迷って、やめた。
明烏は喋り方も仕草も、常人とは明らかに異なる価値基準で動く、変人奇人の類だった。
桜庭とも山本とも違った類の「ヤバさ」を全身に纏っていた。
久陽が「変態性癖」と称したのはまさに絶妙で、言葉の語尾にニヤついてる感じが現れてるというか、常時何かに興奮しているようなねっとりとした喋り方は明烏というキャラクターをよく体現していた。
そして、そんなヤバい4人の中にいてもなお、平常で居続けた久陽が一番狂っている、と私は思う。
崩して座るその姿は、桜庭のそれともまた違って、緊張感のなさが観て取れた。
あのラフさ、普通にしてる(けどあの教授を手伝ってる時点で普通じゃない)感じが、原作との解釈一致というか、キャラクターの解像度の高さを窺わせた。
明烏の常識外な価値観を「センセイは少し変態性癖があるんです」の一言で一蹴してしまえる久陽。
「いかれたメンバーどんどん増えるの怪」と言いながら、それに対してビビることもなく、江戸からも桜庭からも視線を逸らさない久陽。
そもそも名前が「くよう」(=供養)なの、そういうことでしょう?
この物語の行く末を、見届ける役割の人だ。
あと、久陽役の榎木淳弥のビジュアルが良すぎて、私の中の久陽のイメージが完全に榎木淳弥の顔になりました。完全にビジュが良い。
5人が原作と同じ台詞を喋っているのはもちろん耳が幸せでニヤニヤしっぱなしだったけど、物語は原作と違う部分もあり、「あ、ここの設定カットしたんだ」とか、「舞台用に、ここ分かりやすく変えてる」とか、「ここの言い回しだいぶ変わったなぁ」とか、そういう違いも楽しかった。
久陽が院生からバイトになってたりとか。
山本が大学に来訪せずにZoom的なオンライン通話でやり取りしてるとか(ここで加わった台詞「人は嘘をつく」が好き)。
明烏が山本の興奮を「新鮮な悲鳴」って表現してたのがなくなってたとか(この表現めっちゃ好きだったけどカットされるだろうなと思ってたら案の定カットされてたから笑った。むしろ「変態性癖」がカットされてなくて驚いた)。
江戸がSNSをやっている設定がなくなってたのとか。100番目の怪談が変わっていて、そこからの展開もやや変わってたけど、改変後の方が江戸の行動動機にしっくりきて良いなぁと思ったりとか。
明烏のラストに向かっての畳み掛け方はもう本当に紅玉いづき節と呼ぶべき見事さで、そのオンステージっぷりが最高だった。
明烏の言葉は、人に優しくする、という価値観のない人の言葉だった。いや、優しさも持ち合わせているのだろうが、その基準が常人とは異なる人だ。
江戸の呪いを、無念を、触れられたくない心の真ん中を、江戸の愛したものの末路を、躊躇いなく言葉にしてみせた。
『まぼろしの女』が上演されなかったこと。今後も二度と、再演されないであろうこと。
その事実を、たったこれだけの言葉で、突きつけてくる。切り捨てていく。
"ならなかった"のは、『まぼろしの女』だけではない。
だって、この舞台は現実と地続きだから。重なり合っているから。
コロナによって、"ならなかった"、数多の舞台。
みんなにも、あるでしょう?
私にもある。
私にとっての『まぼろしの女』。
ばってん少女隊の西垣有彩のラストステージとか。
私の誕生日当日に開催されるはずだったももクロのライブとか。
安本彩花の復帰と新メンバーの初ステージになったはずのファミえんとか。
コロナがなければアイドルを続けていたかもしれない子のこととか。
たくさん、ある。
それらを全部、"ならなかった"の一言で片付けられる、つらさ。
でも、明烏はそれを、嗤ったりはしない。仕方がないと、同情もしない。
事実である、と述べるだけ。
事実であると述べた上で、さらに言うのだ。
それもまた、事実であると。
今、目の前にある世界。
今、目の前で生み出されている舞台。
その強さを、私はこの身をもって実感している。
この言葉が事実であると、実感している。
だって、今も、さっきも、見てきたんだ。
生きた舞台。『デッドリー邂逅』。
だからこれは、そういう、救いの物語だった。
『池袋裏百物語』は。
死んだ舞台に対する弔いの物語であり。
生きた舞台に対する、祈りの物語だった。
コロナ禍で生まれた物語
ここまで散々、コロナで失われた舞台と『まぼろしの女』を重ねてきましたが。
それは何も私の妄想や勝手な解釈ではなくてですね、という話をもう少し掘り下げて書いておきます。
まずね、紅玉先生が何度か話してたんですよ。
「今後、現代物を書く上で、コロナというものはどう扱うべきか?」と。
現実として起こってしまった以上避けては通れなくなってしまったでしょう?でも、まだ終息もしていないわけで。慎重に扱うべきものでもあるでしょう?
そんなようなことを、つらつらと、言っておりました。ツイキャスで。たぶん、アーカイブは残ってないと思うんだけど。
それを聞いてたときは、「いつか、そういうものを書くかもしれない」くらいのニュアンスで受け取ってたんですけど。
まさかこんなにも早く、クエスチョンの答えが作品として出てくるとは思っていなかった。
そんな、テストのカンニングみたいな話を念頭に置くと、『池袋裏百物語』はコロナが存在していないのに、コロナが存在している「今」と重なる部分がめちゃくちゃあるんですよ。
『池袋百物語』の怪異によって上演中止になってしまった舞台『まぼろしの女』、これはそのまま、「コロナによって中止になってしまった舞台」でしょう。
作中では怪異の正体は別のものだけど、でもやっぱり、「怪異=コロナ」として描かれていると思う。
開催目前で「やっぱり、中止です」となった舞台、たくさんあるじゃないですか。
最近だと、ももクロの明治座公演とか。エビ中のファミえんとか。音楽フェスだって、たくさん。
『デッドリー永遠』が2公演だけやって残りの中止が決まったとき、3公演目を見に行った会場で中止の知らせを知ったという人の話も聞いた。
中止と分かったときの喪失感、憤り、悔しさ。それはきっと、江戸も同じ気持ちだったんだろう。
江戸がずっと配信だけでやってきた『池袋裏百物語』が、最終回だけ有観客配信になるところ。
コロナのリスクを避けてずっと配信でしかライブができなかったグループが、半年とかそれ以上ぶりに有観客でライブをするのと、経緯は全然違うけど、事象は瓜二つだと思う。
私の現場でいうと、去年、最初の緊急事態宣言明けて最初に行ったアメフラっシのライブと、ukkaのライブ。2グループともその少し前に配信ライブをやっていたところからの、久しぶりの生現場だった。
江戸の配信のファンでミクサライブに行けた人、きっとそのときの私と同じくらい嬉しかったはずだ。
そして、その最終回に対して、江戸と桜庭が「何が起こっても百物語は最後までやりきれ」「やめませんよ。たとえば、呪われても」と確認し合っているシーン。
コロナ禍でライブをやると決めても、感染者数だの新株だの、あるいはメンバーの誰かが感染するだの、とにかく「やると決めても、やりきれるか分からない」不安な空気がずっと付きまとってるじゃないですか。
それこそ、この朗読舞台そのものだって、そうだったはずだ。9月12日を無事迎えられるのか。
「最後までやり切りたい」「やり切ってほしい」と、誰もが祈っていたはずだ。
それを、彷彿とさせるシーンだった。
コロナ禍における現代を描くけれど、コロナそのものは描かない。
それが紅玉いづきなりの、「現代小説」への一つの答えであり、それがこの作品なのだろう、というのが、私の解釈。
そしてさらにメタ的なことを付け加えるならば。
紅玉先生自身も、舞台を愛してやまない人なんですよ。
ステージの上で表現する人たちを、あるいはその物語を、愛している人。
死んだ舞台も、行けなかった舞台も、いくつもある人。
この物語では「情念」という言葉が一つのキーワードになっていたけど、じゃあ誰の情念が一番強いかって、他の誰でもない、紅玉先生自身だ。
「かつて、あの公演は、ならなかった。ならなかったんですよ」
この言葉のつらさを、分からず書いてるわけがないんです。身をもって知っている人なのだから。
「それでも、生きた舞台が、一番強いんです」
だからこの言葉は、この物語は、コロナ禍で生まれた「祈り」なのだろう、と思う。
紅玉先生の祈り。魂を削って書く、言霊。
生きた舞台が、誰かの(あるいは、先生自身にとっても)救いでありますように、と。
そういう物語なんじゃないかって、思うのです。
↑書いた次の日に紅玉いづき先生の近況ブログ上がってて、あぁやっぱり「祈り」だったんだな、と思ったので引用します。
より深く『池袋裏百物語』を味わうために
もう十分ねちっこく書いてきたと思うんですが、残念でした! まだ続きます。
というか全然、まだ、書いておかなきゃいけないことがあるんですよ、この作品。
ここまで書いたのは、朗読舞台『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』とその原作小説『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』についてでした。
でも、この2作品にリンクする、派生作品がまだ2つもあるんですね〜。
実はここに至るまでにもう既に、少しだけ書いといたんだけど。
1つは、原作小説が掲載されていた『小説現代』の1つ前の号、小説現代8月号の特集「百物語、あといくつ?」です。
こちらは雑誌の電子書籍もありますが、今回の舞台の上演に合わせて『池袋裏百物語』というタイトルで電子書籍になっております。
話がややこしくなるので元の企画名「百物語、あといくつ?」表記で書きますね。
この企画の内容については、小説現代の今号紹介ページから、下記に引用します。
引用したあらすじでお察しの方もいるかと思いますが、そうです、この「百物語、あといくつ?」は、『池袋百物語』なんです。裏じゃない方の。
江戸が音源を持っている『池袋百物語』、その音源の一部が文字起こしされたもの……という設定で書かれています。
12作品どれもが一人称視点で書かれていて、それがカンパニーの人たちの視点なのだということが分かります。
いや、この企画だけを読んだなら分からないです。劇団員たちの話だということは分かるけれど、それ以上のことは分からない。
でも、『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』とセットで見たときに、初めて分かる。繋がってるんだと。前日譚だったのだと。
(まぁだからこそ電子書籍にする際のタイトルは『池袋百物語』にしてほしかったですけど、まぁいいですけど……)
私は先にこの企画の作品群を読んで、その話1つ1つがめちゃくちゃ怖くて1話読み終える毎に休憩挟んでて、「うわーこのテイストで舞台やるならかなりしんどいぞ……」ってなりました。マジで怖い。
あ、でも、『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』の原作小説及び朗読舞台は全然怖くないので、怖いのが苦手な方も安心して見てください。
私も原作小説読んで「あ、こういう話なら大丈夫だ、良かった〜」ってなりました。
朗読舞台の方では、江戸が怪談を語るシーンが3回あるんですが、そのうちの2回はこの企画の作品が使われています。
さっき感想の章でも書きましたが、『階談』と『ゴーストクラップ』です。
昼公演は『階談』ではなく『背景の人々』が読まれたようですね。
なので、この企画を読んでおくと、物語の奥行きが広がっていっそう深く楽しめます。
江戸がこの作品をどうアレンジして語っているか、という視点で見るのも面白いです。
そして、もう一つ。
これは公式というより、半公式のやつ。
紅玉いづき先生、新しい作品を出すときにいつも、プラスアルファで楽しめる要素を出してくださるんですよ。
独自の告知サイトとか作ってくれたり、短編書いてくれたりする。
今回もありました。それがこちら。
このTwitterアカウントが何かというと、原作小説→朗読舞台でカットされた設定の1つ、「江戸が運用しているSNS」です。
人から怪談を募集したり自分で集めたりしたものを投稿しているSNSがある、というのが原作。
それに準じて、このアカウントは男性一人称で運用され、9月12日までに100の怪談が投稿されました。
ちなみにほぼ怖い怪談がないので安心安全です。
私が好きなオタクの怪2選。
いや、他の怪はもう少しちゃんとしてます。笑
時系列で見れるようにtogetterにまとめてみました。
ちなみにこのアカウント、朗読舞台では消えた設定じゃんって話なんですが、ちゃんと接点があるんですよ。
前述の通り、江戸が怪談を語るシーンは3回。
そのうち2回は企画「百物語、あといくつ?」です。
で、残りの1回がこれです。
舞台で江戸が語り始めたときはびっくりしたなぁ。
あれ、原作と違う! でも見覚えのある怪談だ! でも「百物語、あといくつ?」の作品とも違う……よな? じゃあどこで見たんだ?? ……あーーーっ!
ってなりました。公演終わってから即Twitter開いてこのツイート探したもん。
SNSの設定がなくなってたのは舞台の序盤で気づいてたから、まさかこっちで繋げてくるとは、って思いましたね。
で、繋がってるのはこの2ツイートだけじゃないんですよ。
これは9月11日、12日にもリアルタイムで動いていました。
12日の夜公演前はこの92話まで。
そして、夜公演終わり、93話から投稿が再開される。
舞台が終わっても、物語はまだ続いてる。
どこまでもリアルと物語世界を重ねてくる。
江戸がこのSNSの向こうにいて、百物語を語り続けてる!
わたしたちは、同じ世界線にいるのだ。
おかげさまで、家に帰っても、興奮しっぱなしでした。
余韻どころじゃねえ。最高かよぉ。
93話から99話の更新が楽しかったのはもちろんのこと、100話目は「絶対こうするでしょ」って思って、ずーーーっとニヤニヤしてた。
100話目の更新が始まった瞬間ガッツポーズだった。
これ以上のピリオドはないでしょう?って終わらせ方。
待ってた。完璧。紅玉いづき、天才!
そんなふうにして。
小説、『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』
朗読舞台、『池袋裏百物語 明烏准教授の都市伝説ゼミ』
企画短編、「百物語、あといくつ?」
Twitter企画、「現代怪談百物語@池袋」
ありとあらゆるものを使って、これでもかってくらい「リアルな体験」を味合わせてくる最高のエンターテイメント作品、『池袋裏百物語』のフルコース。御馳走様でした!成仏!
明烏准教授と真木遊成について
あ、この章は読まなくて良いです()
たぶん読んでも99%の人はよく分からないんじゃないかと思います。
1%、もし分かる人がいたら、それは私か紅玉いづき先生か、です。
今回の作品とは全然関係ない作品の話をします。
真木遊成、まきゆうせい、というキャラクターは、紅玉いづきの非商業作品『Gift』に登場するキャラクターです。
現在は紅玉先生のnoteで3話だけ読むことができます。
真木遊成という人がどんなキャラクターかというと、「よく喋る恋愛小説家」です。大体これで説明がつきます。
一応、上記作品から1台詞だけ引用しておきます。
台詞だけ抜き出すとシュールだな()
紅玉いづきの書く男性キャラクターはざっくり言うと「饒舌で行動的な男」と「黙って行動で示す男」の2パターンがいます。
ちなみに「行動しない男」はほぼいません。
これは男キャラに限ったことではなく、紅玉いづきの書くキャラクターは男女問わず(あるいは無性別であっても)最終的に何らかの行動を起こすキャラがほとんどです。
みんな、自我と生命力が強いので。
で、明烏と真木遊成は圧倒的に「饒舌で行動的な男」。よく喋るしよく動く。同カテゴリキャラなんですよ。
だからね、明烏が饒舌に喋っている姿を見て、「あ、真木遊成もこんなふうに喋るのかもしれない」って思っちゃったんですよ。
……いや、「かもしれない」じゃないな。
「真木遊成の喋り方にちょっと似てる」
って思った。
真木遊成の声、聞いたこともないのにね。
なんでこんな唐突に真木遊成のことを書いてるかというと。
ガチ恋なんですよね。私、真木遊成に。
自分の推しへの感情を言語化するのって難しいですよね。いろんな感情が混ざり合ってるから。
真木遊成に対する気持ちも「ガチ恋」と一言で呼ぶにはいろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり過ぎていて、この感情が「ガチ恋」なのかというと、本当はちょっと違うのだけど。
真木遊成を見てると、気が狂う感覚になるの。
なんだか自分では制御できない気持ちがドッと湧いてきて苦しくなる。
好きなんだけど、可愛いとかカッコいいとか見ていて幸せとか、そんなポジティブな感情にはなれない。苦しい。でも好き。狂おしいほどに、好き。
そんな気持ちになるのって、「恋」くらいじゃない?
だから、「ガチ恋」ということにしておく。
紅玉いづき作品のメディアミックスはこれまでいくつも見てきた。コミカライズもラジオドラマも朗読舞台も。
その中でも今回が一番「紅玉いづきの描く世界の具現化」を強く感じた。
脚本を紅玉先生自ら手がけているということもあるし、演者の技量によるところもあったし、舞台演出や会場・SNSを使った臨場感等、いろんな要素が合わさって、今、目の前のステージに広がっている世界は、フィクションではなくリアルなのだと強く強く感じた。錯覚ですらなかった。事実、世界はそこにあった。
だから、そこにいる男が真木遊成に似ている、と気づいてしまった瞬間、真木遊成という存在がグンと近づいてしまったのだ。
現実に、近づいてしまった。
真木遊成もこんなふうに喋るのかもしれない。
饒舌に、身振り手振りも大袈裟に、朗々と。
テンションが上がれば声も大きく高くなって喋るのかもしれない。
聞いてみたい。
見てみたい。
文字と数枚のイラストでしか知らない、真木遊成という男を。
そんな気持ちが膨れ上がってしまって止まらなかった。苦しかった。
大体さ、明烏が丸眼鏡かけてるのもよくないよね。
真木遊成はカラーサングラスだけど、それにしてもキャラ被りじゃん。
あの喋り方で、すらっと細身で、顔を見たら眼鏡があって、そりゃあ既視感バチバチに感じちゃうじゃん。
あと、「先生」って呼ばれる職業なのも一緒じゃん。作家と准教授だけど。
「似てる」って思っちゃうの、わたしわるくないよ。
なんか、この話には爆笑もんのオチなんてなくて、だから久陽くんには供養してもらえないかもしれないんですけど。
成仏できなくても良いから書いておこう、って思って書きました。南無。
文字で愛した世界が目の前に広がってる、という体験だけでももの凄く衝撃だったのに、そこに"ガチ恋こじらせ対象である真木遊成"に近しい属性を持つ明烏というキャラクターがいたせいで「真木遊成の実体も今ここに欲しい」「文字の上の情報だけでは物足りない」って欲望が無限に膨れ上がって気が狂ってしまった、というお話でした。
(オタク特有の早口、ここまで息継ぎなし)
ね、わけわかんないでしょう?
だから読まなくていいって言ったのに。
おわりに
はい。以上、拗らせオタクの新鮮な悲鳴をお届けしました。
同じようなことを何回も何回もこねくり回して書いてしまったと思うんですが、まぁ、仕方ないよね。これが私の情念、です。
このnoteを読んでいる人の過半数はアイドルオタクで、紅玉いづきのことほとんど知らない人たちばかりだと思うんですが、ここまでお付き合い頂き、本当に本当にありがとうございました。
もし少しでも楽しんでもらえてたら、少しでも興味を持ってもらえてたら、紅玉いづきの小説なり舞台のアーカイブなりを見て頂けたら幸いです。
『池袋裏百物語』は、舞台を、ライブを、現場を愛してる人たちに、きっと刺さる作品です。
朗読舞台:配信アーカイブはdTVにて。9月20日までです。急いで!
私もこれを書き終えたら残りの3公演のアーカイブを観ます。
原作小説:電子書籍でどうぞ。
企画小説:同じく、電子書籍にて。
あと、こんだけ長々とネタバラシを書いてきましたが、最後の「種明かし」の部分はあえて書いてません。
『池袋百物語』の「怪異」とは何なのか?
『池袋裏百物語』の最後に何が起こったのか?
その答えはどうぞ、作品を見て、確かめてくださいませ。
ねえ!!!!!
こんな気が狂ったような文章をちんたら書いていたら、推し作家のnoteが先に更新されてるじゃないですか!!!!!
狂おしいほど、好きです。