【書評】『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』(藪本勝治、中公新書)
正しい歴史ってなんだろう。人類が歩んできた道のりを正確に語ることは可能なのだろうか。そもそも正しい歴史は存在するのだろうか。
宇宙のあらゆる場所を撮影できるカメラがあるとする。かつ全ての映像を永久に保存する全録ハードディスクもあるとする。しかも好きなタイミングで好きな場所と時間の様子をホログラムで映し出せるようになつたとしよう。そうすれば正しい歴史を残したと言えるだろうか。いや、歴史ってそういうことじゃない気がする。
『吾妻鏡』という歴史書がある。一三〇〇年ごろに幕府の公式記録として編纂された。鎌倉幕府の歴史を詳細に語る唯一のまとまった書籍だ。現代の鎌倉幕府のイメージは『吾妻鏡』によって作られている。
ところが『吾妻鏡』には多くのフィクションが紛れ込んでいるらしい。江戸時代には内容が疑問視されていたという。『平家物語』をはじめとした資料を切り貼りする形で作られていて、漢文の編年体で書かれているものだから、読むと「これはきっと正しいだろう」と思わされる。しかし、資料がそもそも偽文書だったり、時系列がめちゃくちゃだったり、正確性などそっちのけなのだ。
『吾妻鏡』は何のために作られたのか。それは九代執権・北条貞時が権力の正しい系譜にいることを喧伝するためだ。だから、源頼朝の挙兵で北条氏が重要な働きをしたことになっているし、奥州制圧は北条政子の百度詣りによって支えられるし、二代と三代の将軍は無能で北条氏の助けが必要だったと書かれている。
史実と比較すると『吾妻鏡』は全くの間違いだ。しかし、歴史として間違いと言えるのだろうか。
歴史は常に時の権力者によって再編集されてきた。科学が発展した今でも、資料の正確性が高まるだけで、歴史を作るときには情報が取捨選択され、誰かに都合のいい歴史が生まれる。
教科書にのっている歴史は国が子供に教えたいことだ。教科書によると日本の歴史は縄文時代まで遡れるらしい。ここまで遠い過去の話をされると正しいかどうかなんてどうでもよくなってくる。縄文土器が趣味に合わなかった人たちは葉っぱに料理をよそっていたのか、などと妄想がかき立てられるばかりだ。
歴史には創作性が伴う。世界を一つの道筋で語るには偏った視点が必要だからだ。歴史書になれば言わずもがなだ。つまり、史実から歴史、歴史から歴史書と二段階の創作がなされているのだ。
歴史書の創作性に注目して『吾妻鏡』を読み解いたのが『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』(藪本勝治、中公新書)だ。歴史書が伝えたかったことを拾い上げてみると、権力者の作りたかった歴史の姿が見えてくる。「正しさ」に囚われずに歴史書を見つめてみると、その文学性が浮かび上がる。歴史は文学性によって「正しい」と人々に納得させているのかもしれない。