『ハリー・ポッター』を読んでたら京都大学を卒業した
『ハリー・ポッター』との出会いは2001年の12月、祖父母の住む三重県の映画館でのことだった。当時、第1作の『ハリー・ポッターと賢者の石』が公開されたばかりで、話題作だからと家族でなんとなく選んで観たんじゃないかと思う。初めて観たときの感想はそんなに覚えていない。鑑賞後にパンフレットとハーマイオニーの杖の形のボールペンを買ってもらった。グッズなるものに興味がない僕にしては珍しい行動なので、きっと映画がすごく面白かったのだろう。
後日、本屋に行ったときに母が「これあの映画の」と指さしたのが原作の小説だった。原作というものが何のことかよくわかっていなかったが、何かを買ってもらえるのが嬉しくて、表紙の絵が抽象的で500ページもある本を親にねだった。本と言っても絵本くらいしか読んだことのなかった小学1年生の息子が急に鈍器のような小説を欲しがったものだから、親は喜んで買い与えてくれた。
とはいえ読書経験のない小坊主がいきなりティーン小説を読みこなせるはずもなく、気づけば自分で読むのをやめてしまい、夜寝る前に母に読み聞かせてもらう本にしていた。3つ下の妹が童話などをお願いする横でなんと図々しい所業だろう。オーディオブックが登場する何年も前から僕にとって『ハリー・ポッター』は耳で聞くものだった。
お話を聞いていたら、早く先の話を知りたくなって、また自分で読んでみることにした。漢字が読めない、単語の意味がわからないといった、読みはじめたころにぶつかった障壁はもうないものとして、ガシガシ読んでいった。映画で一度観たことがあるシーンまでたどり着けば、話の流れを理解して読み進められた。
映画の原作小説を読む楽しみのひとつは映像化されなかったシーンを知ることだ。映画の時間的制約から泣く泣く削られたシーンにも感動的なドラマや重要な設定が描かれている。小1の僕はその削られた部分を知ることに夢中だった。小説にしかない場面の存在を興奮しながら母に説明したことを今でも覚えている。映画で何の説明もなく退場したドラゴンのノーバートが実はハリーたちの冒険によって守られていたなんて。映画を観たら原作を読んだ方が絶対いいと思った。僕は小1のころから原作厨だった。
どれだけの時間を費やしたかわからないが、僕は原作を読み終えた。500ページもある本を読み切ったことで、自分はすごい奴だと思った。本が好きになった。どんな本でも読める気がした。実際、理解できないところがある文章を読み下せるようになった。
この理解不能な部分を保留にして文章を読み進め全体の理解を深める能力は勉強において最も重要だ。なぜなら知らないことを知る営みには「知らない」と「知っている」の間を漂う時間が必ず存在するからだ。つまり、僕は『ハリー・ポッター』を1冊読み通すなかで、勉強する能力を身につけたのだった。
『ハリー・ポッターと賢者の石』を読み切って以来、すっかり読書の楽しさに目覚めた僕は図書館に通うようになった。ファンタジー小説と推理小説をメインとしていろいろな作品に触れたが、やっぱり『ハリー・ポッター』が一番だった。親に新たな巻を買ってもらうとソファに座って読み終わるまでそこから動かなかった。そして読み終わったら気に入ったシーンを何度も何度も読み返した。未だに数年に1回のスパンで冬になると全巻読み直している。
本を好きになってしまえば小学校の勉強はそれほど苦ではなく、中学受験を経て私立の中高一貫校に進学した。中学に入ると英語の授業が始まった。母校では先生の裁量が大きく、ほとんどの教科で独自の教材を使った。そんななかで英語の先生が生徒に課した宿題は「多読」だった。
「多読」とは読んで字のごとく英語の文章を多く読む学習法だ。教科書に掲載されている文章だけではサンプルとしての量が少ないため、英語圏で読まれている本やニュース記事に多く触れることで学習速度が格段に跳ね上がる。この学習法では何を読むかが継続するために大事なポイントで、先生が薦めたのは知っている海外作品の原書を読むことだった。内容を先に知っていれば、単語の意味や複雑な文法を知らなくてもそれほどストレスを感じずに読み進められるからだ。もちろん僕は読む本に『ハリー・ポッター』を選んだ。
『ハリー・ポッター』は魔法使いの少年ハリーが魔法寄宿学校に通いながら、親を殺した宿敵ヴォルデモートと対峙する物語だ。1巻につき1年の月日が流れ、全7巻かけてハリーが11歳から17歳までの7年間が描かれる。原作者のJ・K・ローリングはハリーと同世代の読者を想定して、巻を追うごとに書かれている英語の難易度が上がっていくように文体を設計した。そのため日本の中学生がチャレンジしても意外と読めるのだ。
通学電車の行き帰りの間、洋書と睨めっこする日々を半年ほど続け、僕は『賢者の石』を読み切った。またもや自分をすごい奴だと思った。ただ、学校の勉強は疎かにしていたため、試験の成績は振るわなかった。それから単語も文法も理解せずに洋書の『ハリー・ポッター』を読んでいる、そんな日々が4年ほど続いた。
高校3年生になり、いよいよ大学受験戦線真っ只中といったころ、僕の模試の成績は不思議と右肩上がりだった。実は「多読」の効果は大学受験直前でこそ現れる。単語や文法をあらかたマスターした後で、最後にライバルと差がつくのは読んできた文章量だ。追い込みの時期に読書に割ける時間は限られており、それまでに多種多様な文章を読んできた方が圧倒的に有利なのだ。その点僕は、ウィットに富んだ会話だとか、魔法の説明だとか、魔法界の社会問題だとか、簡単には読みこなせない癖のある文章を大量に摂取していた。こうして理系ながら得意教科「英語」の受験生として京都大学入試を突破した。そして同時に1人の原書厨がこの世に誕生した。
京都大学に進学した僕は「動態映画論」の研究室に入った。なんだかものものしい専門名だが、映画について研究するということ以外あまり縛りがない。専門について僕自身の理解が追いついてない可能性が大だが、担任のおじいちゃんが授業で『ヒックとドラゴン』を観て「これはいいですね」と90分言ってるような方だったので、まあなんとかなった。
卒業論文で好きな作品をひとつ選んで研究するとき、僕は迷わず『ハリー・ポッターと賢者の石』を選んだ。テーマは「『賢者の石』の原作と映画の違い」だ。小学校1年生の僕が母に語ったあの感動を学術的に見つめたらどうなるか興味があった。結果から言えば卒業論文は散々な出来だった。世界的な映画を制作する際に原作にある批判を生じうる要素を削るという「ディズニフィケーション」と呼ばれる現象を無知ゆえに雄弁に語ってしまった。今でも僕の卒業論文は総合人間学部の倉庫に眠っている。禁書の棚に指定できないため誰でも読めるはずだ。気になる人は京都まで足を運んで、本来なら観光地を見て回るはずの貴重な時間をドブに捨てるのもよいだろう。
今、僕は翻訳に興味深々だ。自分の手で『ハリー・ポッター』を訳してみたらどうなるのかと夢想している。現在刊行されている癖の強い訳から離れて、脚色の少ない訳になった物語はどんな印象になるのだろう。そんなわくわくで胸が膨らんでいる。『ハリー・ポッター』を読んでいたら翻訳者になっていた、なんてことが起きたらこれほど幸せなことはない。
英語のテストの成績がどれだけ良かろうと、翻訳するとなれば話は別だ。筆者の意図を汲み取れているか、時代考証は正しく行えているか、そして何より日本語をうまく使えているか、気にするところがたくさんある。
読書の楽しみの一つは、時も場所も超えた世界に旅をすることにある。読者が途中で迷ってしまわぬよう、翻訳者はツアー・コンダクターとして、必要十分な情報を提供しなければならない。
例えば、ルイザ・メイ・オルコット作『若草物語』には、Faberという固有名詞が登場する。これは鉛筆の製造・販売会社として1761年に創業したドイツの文具・画材メーカーの名前だ。ここで「ファーバー」とだけ訳せば、読者には何のことだかわからない。しかし、訳注を付けてしまうと読む手を止めてしまうことになる。訳者の腕の見せ所だ。
ひとつの手としては、何文字か加えて本文中に織り込むという手法がある。ファーバーが色鉛筆のメーカー名だと察してもらえれば問題なく読み進められるときは「ファーバーの色鉛筆」とすればよい。読者にどこまで情報を与えるのか、そのさじ加減は難しい。
翻訳者が気を遣い続けるだけの仕事かといえばそんなことはない。訳する楽しみは何にも勝るだろう。例えば次のような文章が登場したとする。
Mary went to the door hurriedly.
「メアリーは大急ぎでドアに向かった」と和訳すれば試験なら満点がもらえる。しかし、この「hurriedly」をどう訳すかで文は表情を大きく変える。
まだ誰も来ないと思って何か用事をしていて、「あわてて」ドアに向かったのかもしれない。もともと落ち着きのない人で、「せかせか」と動いたのかもしれない。誰か好きな人が来るのを待ち受けていて、「いそいそ」とドアを開けに行ったのかもしれない。1つの単語の訳を変えるだけで読者の目の前の世界は大きく変わるのだ。
翻訳者のおかげで海外の作品がするすると読める贅沢な時代に僕らは生きている。そして時代が移れば、最新の言語感覚に照らし合わせた「新訳」が生まれる。受け継いでゆく営みの美しさがそこにはある。翻訳の世界に少しでも興味を持った方に『翻訳に挑戦!名作の英語にふれる』(河島弘美、岩波ジュニア新書)をおすすめする。翻訳のドリルを通じてわかりやすく翻訳の魅力を伝えてくれる良書だ。
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