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教育よりも重要な教養という概念

小人閑居(しょうじんかんきょ)
→ 教養のないつまらぬ人間は、暇があると、ろくなことをしないという意味。

冒頭から辛辣な表現をさせてもらうが、シンプルに頭が悪い人が世の中には一定数いる。

それは別に私自身が頭がいいとかキレ者だというアピールをしているわけではなく、そう受け取る人こそが頭が悪い人だと主張している。

回りくどい言い方を避けると、そもそも、教養と教育によって頭の良し悪しは決まるというのが私の見解だ。

そして、それぞれを簡単にいうと、教養は知識や洞察で教育はスキルを習得する方法だ。

教養と教育の関係

わかりやすく、改めて整理すると、大前提として教養と教育は異なる軸上に位置する概念と考える方が適切だということだ。

いずれも人間の成長と知識の獲得に関連する2つの概念ですが、それぞれ異なる側面を指している。

具体的に概説すると、教養はより広範で深い知識と理解、また精神的な洞察や思考の広がりを指す。

それは単に情報を知っていることだけでなく、多角的な視点から物事を理解し、自己の考えを形成し、他者と対話する能力を含んでいる。

例えば、シェークスピアの戯曲を読むだけでなく、そのテーマや人間性について深く考察し、自分の人生や現代社会と関連付けることが教養の一例だ。

また、教養は教育によって一部育成されるものだが、それだけでなく、個々の経験、自己啓発、そして何よりも継続的な学びと反省によっても形成される。

さらに、教養は一種の人間的な成熟を示すものともいえる。

一方で、教育は一般的にスキルの伝達、そして人間として社会で生きるための基本的なルールや態度を身につける過程を指す。

例えば、学校で数学や科学、社会学などを学ぶことや、親や教師から礼儀や道徳を教えられることなどが教育に含まれる。

つまり、教養はより広範で深い知識や洞察、そして人間的な成熟をそれぞれ指し、教育はより具体的な知識やスキルの習得を指す概念だといえる。

いずれも大切な概念なのだが、レイヤーが全く異なることをまずは理解してもらいたい。

教養がないと感じる人や教養が足りないと思う人の特徴

教養がない人や教養が足りない人とは、特定の主題やテーマに対する深い理解や広範な知識が欠けている人を指すことが多いのが一般的だろう。

また、より広い意味では、他者の視点を理解したり、異なる視点から問題を考える能力が不足している人も含まれるといっていい。

要するに、教養の特性は、他者とのコミュニケーション、問題解決、そして倫理的な判断をする上でも重要となるわけだ。

私は、社会人になってから、あるいはstak, Inc. のCEOとして、様々な人に出会ってきたし、現在進行系で多くの人に出会うことが多い立場にいる。

そんな中でも重きを置いている価値は、成長や進化に関する思考であり、これは教養の一部ともいえる。

そういった意味で、教養が足りない人とは、新たな知識や視点を学び取る意欲がない、またはそれを追求する機会を作らない人々だと言い換えることができるかもしれない。

例えば、特定の分野には詳しいけれど、その知識が固定化されて新たな視点を受け入れられない人や、自分の意見を他人に押し付けるだけで、他人の視点や意見を尊重しない人などについてだ。

私は、こういった人たちに対して、教養がないとか教養が足りないと見なしてしまう傾向がある。

それから、自己中心的で他人への共感が乏しい、あるいは異なる文化や価値観を尊重しない人々に対しても同様に教養が不足していると感じるだろう。

とどのつまり、教養が足りない人は、一部の知識やスキルは多かれ少なかれ持っているかもしれないが、それらを適切に活用し、広い視野を持つことができない人々だということになる。

重要なことは、教養は情報の知識だけでなく、その情報をどのように扱い、他者と共有し、新たな視点を獲得するかというより高度なスキルを含む概念だということだ。

そして、最も重要なことは、教養のない人や教養が足りない人は、私が人生において最もプライオリティが高いと見なしている時間を奪っていくということだ。

そういう人たちのたちが悪いところは、相手の時間を奪っていることに全く罪悪感がないということだ。

教養を身につけることで育つコミュニケーション能力

私はしばしば自分の価値を上げることの重要性を説く。

その意図は至極単純で、自分の価値が高く発揮できるコミュニティで生きていくことが、その人にとって豊かさを感じられる重要なポイントになると考えているからだ。

となると、必然的に必要となる能力がある。

そう、コミュニケーション能力だ。

コミュニケーションは人間社会の根本的な要素であり、技術がどれだけ進歩しても、人間が存在する以上、その重要性は変わらないと断言しよう。

2023年6月時点で専ら話題になっているのが、AI(人工知能)だ。

AIは情報処理や特定のタスクを助けるツールとして非常に有用だが、人間の感情、共感、洞察力といった要素を完全に再現することは難しい。

つまり、教養を持つ領域を再現することは変数が多いので、非常に難しいというわけだ。

くり返しになるが、教養を持つということは、単純に知識や洞察のことだけでなく、自分自身の知識や視点を他者と共有し、理解し合うための基礎を持つことを意味する。

これはコミュニケーションの質を大きく向上させ、相互理解と共感を深める役割を果たす。

要するに、教養は人間のコミュニケーションにおける重要な要素であり、技術が進歩してもその重要性は不変だ。

どのコミュニティで生きるかの選択

2023年6月現在、AIが完全にキャズムを超えて人間社会のインフラの1つになりつつある。

これがなにを意味しているのかというと、より細断された社会が形成されていくということだ。

なにが言いたいのかというと、どのコミュニティで生きるかを選択する時代が到来しているということだ。

今後この動きはより活発化することは間違いないし、人々は自分自身の価値観や興味に基づいて、様々なコミュニティに参加し、自分自身の生活を豊かにすることができるようになる。

そして、それぞれのコミュニティで効果的にコミュニケートするためには、そのコミュニティの文化や価値観を理解し、それに対する洞察力と共感力を持つことが必要となる。

裏を返せば、自分の価値を見いだせるコミュニティでなければ、ツラいとかキツいという感覚になるだろう。

そんなときは、コミュニティを変えて生きればいいだけの話なのだが、それを簡単にできない人たちが現れることも明言できる。

なぜなら、コミュニケーション能力は、教養から派生するものだからだ。

教養がない人や教養が足りない人は、コミュニティを変えることすらできず、そもそもコミュニケーション能力が低いので負のスパイラルに陥る可能性が高くなるということだ。

教養は、これからの時代でも非常に重要な要素であり、コミュニケーションの質を向上させ、人々が多様なコミュニティに参加することを支える基礎となると強く断言しておこう。

教育の重要性

それでは、教育の重要性についても簡単に触れておこう。

冒頭に書いたとおり、教育はスキルを習得する方法だ。

教育は教養を身につけるための重要な手段の1つだと言い換えるとわかりやすいのではないだろうか。

教育を通じて、基本的な知識を学び、思考力を養い、社会との関わり方を理解する。

こういったスキルは、広範で深い知識を持ち、自分自身の視点を形成し、他者と効果的にコミュニケートするための教養の基礎を形成する。

とはいえ、教育は教養の育成の一部を担うものであり、全てを網羅するものではないという点も重要だ。

これも何度もくり返しになるが、教養は教育だけでなく、個々の経験、自己啓発、そして何よりも継続的な学びと反省によっても形成されるからだ。

また、他者との対話や多様な経験を通じて得られる洞察や共感といった、教室の枠を超えた要素も含まれる。

つまり、教育は教養を身につけるための重要なステップであり、基礎的な知識やスキルの習得を通じて教養を育む土壌を提供しているに過ぎない。

となると、どういったコミュニティで教育を受けるのかということも重要になるというわけだ。

そして、とりわけ子どもは、コミュニティの選択ができるほどの経験値がないので、コミュニティの選択は両親に委ねられるのが一般的なわけだ。

ここが非常に危険で、その子の個の特性の見極めができない両親が間違ったコミュニティにその子を入れてしまうと、個が失われてしまうのである。

ここに全ての子どもたちに画一的な教育ができないという難しさが生まれるわけだ。

まとめ

私の価値はアドリブ力がとにかく高いことだと言い切れる。

私のブログを読んでくれている人は、私がよく使っている言葉だということは理解してもらえると思う。

端的に説明すると、いついかなるときにどんな場所に放り出されたとしても、その場所で適応する能力のことをいう。

くり返すが、そんなアドリブ力が高いのが私の価値だ。

なぜ、そう言い切れるのかというと、私には教養があるからだ。

何度も何度も書くが、教養を深めるためには、教育を受けるだけでなく、自己の経験や学びの持続、そして幅広い視野からの洞察を求める姿勢が不可欠だ。

私がその姿勢を生涯崩すことはないだろう。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。