わたしは何に怒っているのか
朝食を終えて食器を片づけていると、夫がもう少しパンを追加で食べたいと言い出した。あるよ、焼く?返事を聞いた後トースターにパンを入れた。
朝はパンが焼ける数分さえ惜しい。トースターの様子を気にしながら、食洗器にあらかた食器を入れ終えてすぐそばの洗濯機に向かい洗濯を干した。
あ、そろそろ見なきゃ
と思ったと同時にチンと音がした。
――やばい、焼きすぎた。
焦げてこそいないが、少し濃い目の焼き色。
「ごめん焼きすぎた。」
「はぁ?!うわ、最悪。ちゃんとしてよ」
カチン・・・
「じゃあ自分で焼いたら?わたし忙しいんだけど。座ってスマホ見てるなら自分でパンくらい見ててよ」
「はぁ?ひとのせいにするなよ。」
「だって、
と言いかけて娘の顔を見てハッとした。
困った顔でケンカしないでと言っている。
「ごめん」
私がした失敗。人のせいにするな、は正しい。
でも、とモヤモヤしながらわたしは娘を連れて家を出た。
その日は、タイミングよくアンガーマネジメント講座の日。
朝から怒りにまみれたわたしは、早速今朝のできことをグループメンバーに共有した。ひとのせいにするわたしの幼稚な言動とともに。
するとメンバーの一人が
「え、ひどい。せっかく焼いてあげたのに。」
といった。
その言葉にわたしはハッとした。
そもそも、わたしは「自分でやればいいのに・・・」と思いながらパンを焼いていたのだ。
怒りの背景には「べき」がある。
わたしは「自分のことは自分ですべき」という価値観をもっている。
以前、怒りの正体=「べき」リストを書き出したときに認識していた。
わたしはそもそも「自分のことは自分ですべき」という考えなので、逆に言うとどんな小さなことでもやってもらったらまず感謝すべきと考える人間なのだ。だからその結果、うまくいかなくても絶対に責めない。
そんな価値観をもつわたしは、夫の言葉に悲しい気持ちになったのだ。
そんな一言が自然と出ることに対しても。
では、夫の一言にはどんな「べき」があったのだろうか?
夫は、「自分が担ったことは責任をもってすべき」と思う人。
そもそも誰かの仕事だとしても、自分が引き受けたなら自分の責任。
引き受けた以上は、相応の結果を出すべきなのだ。
あぁ、納得。
どっちが正しいとか間違っているではない。
正解を考える意味はなくて、ただ、わたしは、わたしの価値観にしたがって、悲しいと思ったことを伝えればよかった。
伝えて相手がどう受け取るかは別として。
そして同時に、よくケンカの種になっているこの価値観たち。
お互い感謝の気持ちが足りていないことにも気づかされる。
わたしは、自分のことを自分でできないくらい忙しく疲れ果てている夫に対して。
そして夫は、仕事だけに打ち込める環境の裏にいる妻に対して。
――たかがパン1枚の出来事、なのだけど。