自分だけにしか分からない身体感覚を自覚する。
意識が身体に向く瞬間、
入る瞬間、
戻ってくる瞬間。
その時いろんなことに気づく。
脚があること。
その上に胴体があること。
胴から手が伸びていること。
頭が頚椎の上でストンと収まっていること。
意識が身体に入る瞬間というのは、
本当に “スイッチが切り替わった”みたいな瞬間で、
「今入ったな。」って
思考に上げるまでもなく感覚でわかる。
目を閉じ外界の情報を遮断する。
深い呼吸をして、
呼吸から得られる何かしらの感覚を感じていく。
確かに身体がここにあることが
身体自体の感覚ではっきりとわかる。
思考に上げるまでもなく
深く静かな場所で
じわりと身体が喜んでいるような感覚。
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感覚の共有って、
ある程度は言語化などによって共有できたりする。
例えば、
「キリキリする胃の痛み」
「頭がズキズキする」
「重だるい感じ」
「胸がスカッとする」
「身体が軽い」
「ここは良い場所な気がする」
など。
でも、
ほんっとうに100%の一致感を持って
他者と感覚を理解し合うことはできない。
なぜなら、
持っている身体が違うからであり、
感覚は主観だからである。
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正解を外界に求めてしまう時代。
数値で自分の身体のことがわかってしまう時代。
外界の情報はとっても役に立つ反面、
外界の情報に埋もれて
自分の感覚が分からなくなることも多い。
自分の主観としての感覚を
否定してしまうこともあるかもしれない。
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唯一無二の自分の身体の感覚を
肯定して大切にしていくことは、
自分の主観を肯定していくこと。
“自分だけにしか分からない喜びの感覚を肯定していくことである。”
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一方で、
100%の一致感はなくとも
誰かと何かを共有することもまた
とても喜びに感じることである。
(私も実際、感覚共有の場づくりなどを目指している節がある)
でもやっぱり完璧に共有できないことに
時々少し寂しい気持ちになったりする。
とか言いながら
100%自分のことが分かられてたまるか!
とも思ったりする。
“ある程度”共有できるから良いんだと思う
“ある程度”が完璧にちょうど良いんだと思う。
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感覚を感じていくことや
それを肯定していくこともまた
プラクティス。
お掃除をするように
弦のチューニングをするように
ずっと続いていく
プラクティス。
(このお掃除、チューニングは
ある意味疾病予防でもある。)
瞑想したり、
ヨガしたり、
ふとした瞬間に目を閉じて深呼吸したり、
シャワーを浴びたり、
他のどんな場面でもできる。
身体と自分との信頼構築作業
=身体は自分であるとの一致感回復作業
(「身体は魂の乗り物」という説はある意味採用するし、ある意味採用していません。これも解釈の方法の違いなだけで本質は一緒ですね。)
今日もせっせとコツコツ
自分の身体に向き合おうと思う。