詩歌ビオトープ018: 木俣修
詩歌ビオトープ18人目です。今回は木俣修を取り上げます。
この人は1806年に滋賀県で生まれました。幼少期から「赤い鳥」や「金の船」などに詩や絵を投稿していたそうです。
1927年、東京師範学校入学とともに上京し、憧れだった北原白秋に弟子入りします。しかし、その頃白秋は自身の雑誌を持っていなかったので、白秋系である村野次郎主宰の「香蘭」に参加したり、前田夕暮の「詩歌」に籍を置いたりしたそうです。また、前川佐美雄らと芸術派クラブを組織したこともあったのだとか。
白秋が「多摩」を創刊してからはその編集に携わり、白秋没後は「多摩」を引き継いで発行しました。いわば、北原白秋の一番弟子、という感じですね。
戦後は昭和女子大学の教授となり、国文学を教えたのだそうです。また、昭和天皇の和歌指導も担当したのだとか。そして1983年に亡くなりました。
歌集は1943年、37歳のときに上梓した「高志」が処女歌集です。1981年、75歳のときに出した「雪前雪後」では現代短歌賞を受賞しました。
さて、今回も参考とするのは小学館の昭和文学全集35です。
本書には、「高志」から37首、「冬暦」から30首、「呼べば谺」から44首の合計111首が収められていました。
で、僕の分類ではxが17でyが14、絵画的かつ自然主義的な人になりました。
特に30代40代の頃の「高志」や「冬暦」は写実的傾向が強いと感じました。やっぱり白秋の影響でしょうか。で、58歳のときの「呼べば谺」はその頃と比べるとかなり写実的というわけじゃない生活詠が増えていったような、そんな印象です。
で、幼い頃から投稿を続けてきた人だからか、とにかく上手だな、と感じました。
たとえば、次の歌。
なんかは、ただ鼠や鴨の鳴き声を描いているだけでなく、それらを描くことで冬の寒さや暗さのようなものがこちらにしっかりと伝わってくる気がします。
あと、この歌がとても印象に残りました。
この歌は父親が亡くなったときのことを詠っているのですが、そのことを悲しみながら、石蕗の花をきれいだなと思っているというところに、この人のロマン主義者としての業のようなものを感じました。
「呼べば谺」も、ところどころにある写実的な歌にやはりはっとするものがありました。特に、この表題作はとてもいい歌だと思います。
ということで、19人目に続く。