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その人

少し背中を丸めて机に向かう

デスクのライトが明るく横顔を照らしている

僕の思い出の中の父親はいつも何か書き物をしている

本当に生前ろくな会話をした記憶がない

何か話しかけても受け答えはいつも短い

怒られた記憶もあまりない

ただいつも実力行使で

部屋の電気をいつもつけっ放しで小言を母に言われていたら

ある日部屋の照明器具が取り去られていた

何日かそれで過ごしたが父親に謝ってつけてもらった

表現はいつも言葉じゃなくて行動だった

何回か相談したことがある

第一志望の大学に落ちて浪人か進学か悩んだとき

休職して海外に行こうと思っていることを明かしたとき

答えはいつも決まっていた

「お前の好きにすればいい」

だから僕も滅多に相談しなかった

一度も外に酒を飲みに行ったこともない

無理やり家で飲もうと思ったことがある

全く話がはずまなかったので早々お開きになった

だから葬式の時に父の友人が弔辞の中で

地元に行きつけの居酒屋があってよく行ったとのエピソードを紹介して

すごく驚いた

倒れて駆け付けたときはもう口に管が入っていて喋ることができず

結局亡くなるまで言葉を交わすことができなかった

振り返れば本当に会話のない父と息子だった

笑顔で抱きしめられた記憶もないし

叱責されて殴られたこともない

でもいつも机で書き物をしている後ろ姿を見て

「お父さんはいつもお仕事している」と

心ひそかに尊敬していた

あ、忘れていた

感謝していることもある

小学生のときに詩を暗記させてられていて

今でも島崎藤村の「はつこひ」を諳んじることができる

意味も分からず覚えたけど

こういうことが教養なのだと後になって知った

お父さん

あなたともっと話したかった

せめて遺言めいた言葉を聞きたかった

もし今会えたとしてもやっぱり

会話のはずまぬ静かな時間が流れるだけなのだろうけど




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