再び地下水道へ

 同じ職種のあいだで会社を変わるだけなら転職ではなく転社に過ぎない。転職と呼ぶに値する転職を、自分は今までに何回してきただろうか。製版会社から校正会社へ転職したのは、だいたい同じような業界だから、純然たる転職とは言えまい。しかしそこから寺院の住職になったのは本当の転職だと言っていいだろう。だとすれば一回だけだが、一回だけでも、まあまあ劇的な転換だ。四〇代半ばを過ぎ、そろそろ全く新しいことをするのも悪くないと思えたからこそできたことだと思う。
 それにはUターン移住という長大な位置移動と生活条件の改変が伴った。東京から豊岡へ生活の拠点を移した。前者は大都会、後者はド田舎である。私は高校を卒業するまではこのド田舎に住んでいたので、急に移っても耐えられるだろうとタカをくくっていたのだが、全然そんなことはなかった。とにかく都会生活に慣れた身にはこの何もない土地が息苦しい。加えて高齢で無神経な母親と二人暮らしである。限りなく温厚な私であるが、母にはイライラさせられた。しかし母とは衝突しながらも要望を言葉にして明確に伝えるようにし、円満な関係を築いた。それを確立するまでに丸五年かかった。
 もう一つのネックの田舎の何もなさが苦痛でなくなるまでにも同じぐらいの時を要した。最初は一年で体が慣れたと思ったのだが、さすがにそんなに甘いものではなかった。都会に遍在する文化資源の消費よりも田舎に僅在するそれの生産のほうが、結局のところ持続性があって面白いだろうと、マインドセットを転換する必要があった。もっとも私は現在、たいした生産をしているわけではない。地域おこし協力隊の人たちと話すと、外部からの移住者である彼らが、ここで生まれ育った私よりもはるかにこの地域のことを考え、打つべき手を打っていっているのに感心し、我が身を省みて忸怩たらざるを得ないが、しかし考えてみれば、もともと協力隊はそういうミッションを帯びてやって来て、しかも任期があってやっているのだから、当然といえば当然だ。私は短期的な成果を求めるのは彼らに任せ、伝統仏教の寺院を預かっているという置かれた環境もあるのだから、自分は100年後のことを考えるのが適切な役割分担かもしれないと考えた。しかしこんなことは無意識の逃げかもしれない。100年後のことを考えていると言えば聞こえはいいが、短期的な成果を諦めているだけではないか?
 私がここへUターンしてきて最初に固めた覚悟は、呆れられるかもしれないが、何をやったらいいかサッパリわからない状態に耐えることだった。どうせすぐには答えは出ない。否、もしかしたら永遠に正解はないのかもしれない。安芸でも北陸でもない、真宗信仰のそれほど厚くない山陰の片田舎の、門徒軒数八〇に満たない小さな寺を受け継いで、自分に一体何ができるのか。いやそれ以前に、自分は一体この寺をどうしたいのか。金が欲しいわけでもない。立派な伽藍を建てたいわけでもない。納骨堂販売業者になる気もない。もっと抽象的な心の問題だということはわかる。しかしそんな雲をつかむようなことで事業体の運営ができるのか。
 私は馬鹿かもしれないが、残りの一生を棒に振って信じていないことをするほどの馬鹿ではない。近代以降、主として否定的なものである死観を、そうではないものへ戻すには、地域の中にある伝統宗教の葬儀主宰者である自分の立場が役に立つ。通夜の儀には若い方もたくさん来られて私の話に耳を傾けてくださる。宗祖親鸞から流れでる法灯には八五〇年の歴史があり、庫裏には読みきれないほどの本がある。何年かかるかわからないが、伝えていくことはできるだろう。同じことを諦めと呼べばネガティブなニュアンスが生じるだけの話だ。

 どこへ行っても通用するスキルを身につけること。若い頃はこれを知らず知らずのうちに意識させられていた。最初の職場が従業員の面倒を一生見るというような発想とは無縁のところで、そんなんじゃここを辞めてどこか別のところへ行っても通用しないぞというのがダメ出しの決まり文句だったからだ。
 製版会社で現場と得意先に挟まれて、どちらからも怒られ、双方に頭を下げるスキルを発達させたことが、寺の住職になってからも意外と役に立った。小さい寺の住職は過疎地の小学校の校長と教務主任と用務員を兼ねるような仕事である。対外的な顔であるとともに現場責任者と雑用係でもあるということだ。年に一回の寺の総会で、住職の収入は公開しているが、たったこれだけで生きていけるのかと憐れまれているだろうか? それとも法務の稼働が平均して週一ぐらいであるにもかかわらずこんなに実入りがあるのはやはり坊主丸儲けかと驚かれているだろうか? 財施は経済行為ではない。だから収入とか実入りとか言うのは実は間違いで、二時間の講演をやって十五万もらったのならその講演者さんが十五万稼いだと言っていいだろうが、二時間の法話をやって十五万の御布施をいただいたからと言って私が十五万稼いだわけではない。両者は全然違う。私は何もしていない。ただ預かっただけだ。行為の主体はあくまでも施主さんである。施主さんが、法話をきっかけにして、十五万円というお金を施すという仏道実践を行った。それだけである。
 法務の稼働が平均して週一ぐらいだと言っても、それ以外の日に遊んでいるわけではない。むしろ寺に常駐して雑務をこなし、突然の訪問者にいつでも対応できる状態を保っておくことが信用になって、それが法事なり葬儀なりの御布施の額に現れていると考えたほうがいいかもしれない。対価ではないとは言え、出すほうの人情としては、たった一時間の法要に対する布施ではないという思いだとすれば、僧侶派遣業者がその場限りのことに値段をつけている不適切性も理解されるだろう。

 平成三〇年に地元の学校法人に声を掛けていただき、法務のあいまにフリーランスの立場で文部科学省に委託された調査研究事業に関わり始めた。これは職業教育と発達障害等の特性のある生徒の受け皿に特化した後期中等教育、専修学校高等課程での、主に就労支援のモデル事業である。全然わからない? 私もそうだった。だから会議の議事録はそこまでするかと言われかねないほど精密に作った。わからない言葉が頻出するので、いちいち意味を調べ、理解しながら文章に起こしていく。すべて自分の勉強のためである。ほんとうは議事録などはアクションアイテムを書き留めて、誰がそれをするか、期限はいつまでかが参加者に共有されればいいので、そんな座談会書き起こし書籍化みたいなことをする義理はない。しかしこれをやったおかげで業界のことがまあまあわかっただけでなく、書き起こしそのもののスキルも上がった。今ではインタビュー記事の執筆なんか、依頼があればいつでも受けられるつもりだ。
 この事業は三ヵ年で一つのまとまりになっていて、私は平成三〇年から令和二年までの三ヵ年と、令和三年から令和五年までの三ヵ年の二期を経験させてもらった。2018年から2023年までである。そのあいだにもろもろの理由から、フリーランスの立場での関わりをやめ、非常勤ではあるが、声を掛けていただいた学校の職員になった。そしてどうやら令和六年度からもこの事業の受託は続くようだが、一つのブランチがなくなったので仕事量は半分に減るはずだ。このなくなったブランチは地域での異業種間の連携に関わるもので、結構マンネリ化していたので、私は地元の若いアーティストに声を掛けて地域コミュニティのコーディネートや場づくりを事業の中へ取り込んでいこうとし、責任者から「マックス三〇万まで出す」という言質を取ってもいたので、なくなってしまったのは実に残念だ。何事もあるうちにやらないといけないということだろう。

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