【私見】『鹿の王 ユナと約束の旅』は内容とは裏腹なる排除の映画~映画本編③~
前回の続き、『鹿の王 ユナと約束の旅』~映画本編③~を書かせて頂きます。
(思い出しながら書いているので、箇条書きやシーンが前後する事があります。読みにくい事はご了承下さい。)
〈玉眼来訪〉その眼が見るもの
雲海に届く程の高く反り立つ岩石を切り崩しながら、東乎瑠帝国によって不気味な目玉の気球が続々と空に揚げられていきます。
旅路途中のヴァン、ホッサル、サエの三人はそれを目にして東乎瑠帝国の皇帝・那多瑠(ナタル)の乗る大気球の道しるべだと話します。
皇帝自らが進軍するこの〈玉眼来訪(ぎょくがんらいほう)〉はヴァンらが目指す〈火馬の郷〉に刻々と迫っていました。
火馬の郷は、未だ東乎瑠に属そうとせずに抗うアカファの一民族・火馬の民の暮らす土地で、東乎瑠帝国が過去に進軍しながらも〈黒狼熱(ミツツァル)〉に阻まれ、多くの兵を失い、その進軍を断念したという因縁の地でした。
「病」のせいで全てのアカファの支配が出来ていないと考える東乎瑠帝国は、その遺恨の矛先を潰すべく、玉眼来訪という強硬手段を取ったのです。
巨大な岩石が要塞の様に点在するアカファの地で、それを破壊して進む様は、アカファ王国という国の体内で抗体(岩石)を破壊していくウイルスの進行のそれと同じようで、更にはその異質な気球の進行で権力を誇示し、その力で異分子を排除しようする光景は、アカファを蝕んでいく「病」そのものでした。
(この為に、ヴァンの旅路での背景描写・人の体内の旅(アカファの体内)のような景色が差し込まれている側面もあるのでしょうか。)
火馬の民、ケノイやオーファンが企てた黒狼熱を使った抵抗と、東乎瑠の気球の軍事進行は、実は同じ成分で出来ている対立構造の報復の連鎖の象徴として歪に描かれていました。
その頃、火馬の郷では、山犬達の集まる大樹の下でオーファンは何かに伏せ、耳を傾けるようにしていましたが、「もはや私には声も聞こえんか…。」と、含みのある心中を語っていました。
この山犬の集まる大樹には、あのヴァンに語りかけていたケノイがおり、もはやその姿は大樹と同化した風貌で、もう既にその存在が人としてでは無くなっていたのです。
原作では、ケノイとオーファンは親子です。
実は映画も、語られてはいませんがその設定を継承していて、ケノイの持つ「才覚」に選ばれなかった実の子・オーファンと、東乎瑠皇帝・那多瑠に関心を寄せられない実の子・与多瑠の構造が類似性を帯びており、
その与多瑠もまた、玉眼来訪に従軍する命を受けていましたが、皇帝の大気球の来訪にその姿を見せようとせず、「今の皇帝の目には私なぞ写らぬ。」と、彼もその心中を語るのでした。
前に書いた、那多瑠と与多瑠が実の血縁と引き上げられている改変が、ここにきて、「父に選ばれずにも、その信念で郷を守るオーファン」と、「父に命令され、本心ではない侵略に加担する与多瑠」の対比になっているのです。
原作での〈玉眼来訪〉は、映画の軍事侵攻では無く、皇帝の実子(有力者)による支配地域の視察の設定でした。
そこでは、東乎瑠の支配下での新しい生活や進行状態を知る為に、執られた政策の過程を披露する事が行われていました。
原作では、東乎瑠からの移住民の様子や、〈飛鹿(ピュイカ)〉を繁殖させる結果を、見世物の様な「祭典」として演出されていました。
映画とは違う側面である〈玉眼来訪〉。
この内容の改変に…ある方が、こう示してくれました。
「オリンピックという玉眼来訪」
この言葉を受けて、はっとさせられました。
オリンピックもまた多種民族が競技を通してその成果を示す、国・民族を超えた一大祭典です。
しかし、輝かしく見えるその裏側では、政治的であったり…、様々な思惑が動いていて、その陰になった者達が多く存在していたのも、何の因果か、近年の「東京2020オリンピック」を通してまじまじと感じ取ることになりました。
その裏側になった、影部分を強烈に抽象化したのが映画の〈玉眼来訪〉であり、表は世界平和のシンボリズムを謳いながら、裏で徹底した不穏分子の排除が行われているオリンピックのさまなのです。
オリンピックへのアンチテーゼが内包され、改変へとなった〈玉眼来訪〉の正体なのではないでしょうか。
オーファンの傍らに、あのヴァンを噛んだ「隻眼の山犬」がいました。
そのシルエットは、他の山犬よりも一回り大きいものでした。
恐らく、オーファンが連れている隻眼の山犬は、原作の黒狼と山犬を掛け合わせた〈半仔(ロチャイ)〉というより、黒狼そのものの設定なのでは?と、感じさせます。
原作では、黒狼熱のウイルスを宿した半仔を〈キンマの犬〉(キンマとは火馬の土地の神の名)と呼ばれていましたが、映画の設定では「山犬(やまいぬ)」と一括りにされ、原作読みの〈山犬(オッサム)〉とも〈半仔〉とも呼ばれません。
ですが、オキの村を襲ったときもオーファンと隻眼の山犬が連れ添っている描写から、ケノイの「才覚」によってだけ操れる山犬達では無く、原作でいうところの黒狼を使って、オーファンもまた山犬達を操る事が出来たのではないかと思います。
それがこの、「隻眼の山犬」改め、「隻眼の黒狼」の存在なのではないかと。
ただ、これも仮説ですが、黒狼の存在だけでは、ケノイの様な有用な操り方や、山犬達の存続に対処する力までは無く、あくまでもケノイの補助的な役割であったのかもしれません。
「隻眼の黒狼」は、その左目に傷があります。
対して主人のオーファンは右目に眼帯をしています。
互いに「隻眼」であることの繋がりが分かりますが、右と左の眼差しの示すものには違いがあります。
オーファンは左目で世界を見ている訳ですが、左とは、あらゆるものの方向の基とされる右の「正しさ」に対しての「反対」「異なる」「誤ったもの」等の異端のシンボルとして比喩されてきました。
恐らく、これは東乎瑠との戦いの傷で、右目を失ったであろうオーファンの見るものが、東乎瑠によって閉ざされ、左目でその世界を見る彼の、歪んだ信念のメタファーとなってデザインされているのだと思いました。
そして、黒狼は恨みや呪い、ましてや病とは無関係に、その恐ろしい能力を内包しながらも、ただただ従順に従う「獣」であり、その歪みとは無縁の「無垢な」右目で世界を見ている構造なのでしょう。
この主従関係にも、こんな対比構造が作られているのです。
更には、右目か左目かも分からない東乎瑠の示す第三の目の刺青や、〈玉眼来訪〉の気球の不気味な目は、オーファンの見る世界とも、獣の見る世界とも違う視点として描かれ、それぞれの見るものの違いがこれから交錯しようとしていました。
救われぬ聖地・苦悩の中の魂の救済
サエの去った後、ヴァンとホッサルは旅を続けていました。
ホッサルはヴァンの作っていた鹿笛の音色を聴かせてくれないか?と、言い、ヴァンはそれに応えます。
響く鹿笛の音に対してホッサルは「そんなに良い音じゃないな…。」と言い、二人は笑い合います。
この憎まれ口のようなやりとりなのに互いが笑い合うのは、ホッサルとヴァンがこの旅を通して築いた関係性の現れであると共に、サエの小刀で作られたユナの為の鹿笛が媒介となって、魂を救われた者と、肉体を救う者が繋がった瞬間なのでした。
そうして、二人はようやく火馬の郷の入り口へと辿り着きます。
入口の洞窟に入ると、またしてもヴァンの意識にケノイが語り掛けてきます。
その側面で、ホッサルは火馬の民に捕らえられてしまうのでした。
この、ホッサルが攫われる描写は、正直言って違和感でした。
やっと辿り着いた火馬の郷で、ヴァンと一緒でも成立する話には出来たと思いますが、二人をここで分断する必要性が私には見えませんでした。
ヴァンを待っていたのはオーファンでした。
火馬の郷の長だと語るオーファンは、火馬の郷の光景と背景の全てを説明してゆきます。
その中で、ヴァンを魅了したのが飛鹿の群れが存在する光景でした。
原作で語られる飛鹿が住める環境は、ガンサ氏族のヴァンにとって、懐かしき故郷の光景と同じように見えたのでしょう。
オーファンはもうすぐそこまで迫った玉眼来訪と、それを事前に知ったトゥーリムとの経緯や、〈犬の王〉と呼ぶケノイの存在も明かしてゆきます。
そして、力の弱ったケノイの持つ、〈犬の王〉の力の後継者はヴァンだと言います。
そう口にするトゥーリムにも、左腕に獣に噛まれた傷があり、山犬に意図して噛まれている事が示唆されていました。
一方で、攫われたホッサルが目覚めると、そこにはユナがいました。
「きれいでしょ?光ってる」と何処か心此処ににあらずなユナが示すものは、あのアッシミでした。
そして、ユナの行き先には山犬の存在があり、それを説明するオタワルでホッサルと共に医術を学んだシカンが現れ、力を貸して欲しいと、その山犬に噛まれて苦しむ子供達のもとにホッサルを案内してゆきます。
ヴァンとホッサルが見る火馬の郷の光景は対局のものであり、ヴァンには美しき・守るべき光景を、ホッサルには守るべき行動の果てに隠れた影の光景が示されていきました。
オーファンの存在は臣下達の行動や言動から汲み取ることが出来ます。
〈犬の王〉を引き継ごうとして自ら受けた洗礼の末、黒狼熱に苦しむその子らですら、オーファンの心中を案じる等、非常に敬われた存在の主君であることが描写され、火馬の民にとってオーファンは希望の象徴の様です。
しかし、その側面では、明日には戦火にまみえるこの郷で、避難した民とは違い、未だベッドに寝かされた病の少年達は、言わば既に肉体を見捨てられた存在だという過酷な側面もありました。
以前、ホッサルが看取った黒狼熱患者が死の淵に際してもなお、神に助けを求めることに表れた、東乎瑠に根付く清心教が示した「肉体よりも魂を救う選択」と「魂と肉体の拠り所の違い」が、オーファンの統治する火馬の郷でもまた、違った形として成り立っていたのです。
原作では、火馬の地には〈キンマ〉という神の存在がありましたが、どうやら東乎瑠の神や、清心教との対比をさせる為に〈キンマ〉の言葉は葬られ、映画の改変された火馬の地では、「神の名の排除」が成され、それに代わるオーファンと〈犬の王〉の存在があったのです。
ここで唐突に登場したシカンは原作にも登場する重要人物ですが、その扱いの改変は一番大きく変化しており、(原作の扱いは割愛します。)ホッサルと共に学んだという言葉のみで、ホッサルとシカンの関係性を劇中で示すようなものはありません。
シカンについては原作基準で扱うと、かなり濃密な経緯の描写が必要とされると思いますし、アカファと東乎瑠の二国間の柵む問題に、ホッサルの属するオタワルとも絡む火馬の民のシカンの存在が、物語をより複雑化させ、更には圧迫させてしまう懸念の末の改変だと思われます。
本作公開前にシカンが登場するという話題は全く出ず、公開まで秘密の様にされていました。
なぜなら、原作を知る方達にとって、シカンの存在が出てしまうと、物語に対しての「ある概念」が発生し兼ねないと考えたのでしょう。
その為に、シカンを演じた声優・日野聡さんの存在も抹消された様に扱われ、これもまた「専業声優の排除」となっていたのでした。
ヴァンらとの旅から別れたサエは、〈玉眼来訪〉の宿営地、トゥーリムの下に戻っていました。
命令であったヴァンの暗殺を拒否するサエに、トゥーリムは激情することもなく「失望したぞ。」とだけ言い、部下に「連行しろ。」と伝え、サエの命を取る台詞ではありませんでした。
それを命じたトゥーリムのサエを見つめるその顔には、何処か寂しげなものが感じられました。
ここにきてトゥーリムの情を見せるものに映りました。
その姿を見ていたアカファ王は、密かに紡いできた東乎瑠に対抗する手段、黒狼熱を持つ山犬を扱う火馬の民の手駒を失う事、黒狼熱の致死率の脅威を覆すであろうヴァンが健在な事に、不服の言葉を投げるのでした。
このとき、その反応からトゥーリムは、サエから「ヴァン殺害を拒む」報告を受けていたと推測されますが、アカファ王に対しては「サエがヴァンを見失った」と報告しています。
アカファ王に伝わるニュアンスが微妙に違うように改変されているのです。
恐らく意図的に。
これもまた仮説・妄想になりますが、トゥーリムはお抱えの後追い・サエの境遇を知る人物だと思います。
そこに何かしらの感情があって、例えるならトゥーリムにとって、サエを娘のような存在にも感じていた節があるのではないのでしょうか。
前記事で、トゥーリムも「間で語る」キャラクターだと書きましたが、アカファ王の去った後、一人、無言で佇むトゥーリムの描写は、不器用な父親の様であり、削られたか、設定のみ存在する「血の繋がらない父と娘」とした、トゥーリムとサエの関係性があったのではないかと思わせるシーンでした。
オキ地方でヴァンと出会ったとき、ホッサルに追手を撒けと命じられていたマコウカンは、その席を〈玉眼来訪〉で従軍中のアカファ勢の中に置いていました。
そこで、サエの姿を見かけたマコウカンは、ホッサルの行方を案じていた一心で、その責から連行中のサエに詰め寄り、コミカルな行動からサエを救い、ホッサルの居場所を知ると、すぐさま馬を走らせ、火馬の郷に向かってしまいます。
マコウカンの行動は、己の立場や環境に左右されるものではなく、ただただ純粋に、気持ちに正直に、自分のやるべき事を、その真っ直ぐな姿としてサエに見せたのでした。
明日に迫る〈玉眼来訪〉。
ヴァンは一人、沈みゆく夕日の中で、飛鹿の群れの中でオラハと共に佇んでいました。
ここにどんな複雑なる思いが込められたシーンであったのか、私には全てを汲み取れませんでした。
犬の王 裏返り 黒狼熱 飛鹿 火馬の郷 オキの村 亡き家族 そして、ユナ
あらゆるヴァンを取り巻くものが内包されたヴァンのシルエットではあるのでしょうが、ここにきて多種の映像や情報で語らずに、ある意味潔い1カットでその心情を語るには、あまりにも高い敷居を設けたな…というのが率直な感想です。
ここまで主人公を寡黙に表現するのか………と。
その裏では、恐らく徹夜で黒狼熱患者と向き合うホッサルの奮闘がありました。
これは、魂と肉体、双方で苦難し、戦う男達の姿でした。
一夜が明け、看病に疲れの見えるホッサルの下に、オーファンとヴァンが現れます。
詰め寄るホッサルに、オーファンはヴァンが〈犬の王〉を継ぎ、病は選ばれし者を生かすと語り、それを聞いたホッサルは病は神の意志では無い、ヴァンの血(抗体)があればその患者も救えると反論します。
しかし、オーファンはそれを気にも止めず、ヴァンが〈犬の王〉になってから決めればよいと、選択を放棄している発言をするだけでした。
引き留めるホッサルに対して、無言でケノイの元へ向かうヴァン。
ここでホッサルは原作のヴァンの台詞を語っていきます。
「確かに、病は神に似た顔をしている。いつ罹るのかもわからず、助かる者と助からぬ者、その堺目も定かではない。己の手を遠く離れたなにか────神々の掌で描かれた運命のように見える。だが…だからといって、諦めてよいのか?それが運命に思えようと、抗ってもがくことが、生きるということじゃないのか?」
このシーンの絵コンテの一部が映画パンフレットに載っています。
そこには安藤雅司監督の言葉で、
「沈着冷静なホッサルから感情が溢れる」
「ホッサルにとってこういう言葉を発することは敗北であったはず」
「しかし、弱さを認めるということはホッサルを浄化する」
と、書かれていました。
医術という、その時代・技術・知識の力量の水準はあれど、いつか、いつの時代にか、進化の末に必ず解がある(と、「信じ」「縛ってきた」)世界で戦ってきたホッサルは、その負けを認めることで、ここではじめて疑念として感じていた、解の無い「魂」の救済を「解放」によって、その身に実感するのです。
しかし、それでもオーファンは己の運命を満足しているとし、東乎瑠皇帝・那多瑠の打倒を掲げ、命を懸けるに不足は無いと言い放ち、その信念が揺らぐものでは無かったのです。
「神に選ばれし者だけが生きることが出来る。」
そう口にしたオーファンは、山犬に噛まれながらも〈犬の王〉の力を持たずに生きていました。
オーファンもまた「神(父)に排除された者」であると自覚しての、自身への皮肉なのです。
与えられた境遇、父から〈犬の王〉を継ぐことのなかったその無力感と、火馬の長としての責務、そして父・ケノイへの思いに挟まれた苦悩の末に、その「肉体」を「魂」の浄化の為に差し出そうとしていたからなのでした。
これは、〈独角〉であった頃の、死に場所を求めていた”欠け角のヴァン”の「魂」と同じものだったのです。
───映画本編④に続く───
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