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甘く、せつない、恋愛小説。原田康子の「いたずら」

「いたずら」は、ある一人の男が、友人からゆずられた、いや、半ば押しつけられたチケットを持ってコンサート会場へやってくるところからはじまる。
そのクラシックコンサートは、友人の青木二郎が若い恋人と一緒に来るはずだったのだが、「ヒタムキ」で「純情可憐」な彼女を重く感じた彼は、そのチケットを、同僚の副島卓次に渡したのだ。

青木の恋人は、青木ではない別の男が現れ隣の席に座ったら、どんな顔をするだろう?
卓次は、うつむいてプログラムを見ている娘の横に座る。

青木からチケットを渡されたのだと卓次が言うと、娘の顔色が変わる。
続けて卓次は、青木は体調不良なので代わりに同僚の僕が、という下手な嘘をつく。
娘が信じていないのは、明らかだった。

この日、二人はいったん別れるが、しばらくして、卓次の会社に京子から誘いの電話がかかってくる。
喫茶店で出会った京子は、せいいっぱいのおしゃれをしていた。そして、笑顔を見せて卓次に、「わたしとつき合ってほしいわ。いけない?」と言う。

彼女は、「副島さんのことを好きになった」と言うが、彼はそれを、芝居だと見抜いた。
結果、二人は、青木にやきもちをやかせるために恋人同士のふりをしよう、ということになる。

卓次と京子は、恋人ごっこのためにデートを重ねる。
ある土曜の午後、線路沿いの土手を飯田橋に向かって歩く二人。

娘との散歩にふさわしいような、おだやかに晴れた晩秋の午後だった。空は眠ったような水色をしており、土手には蜂蜜色の陽射しがたわむれ、学生たちがあちこちで本を広げたり喋り合ったりしていた。松の蔭には若い恋人たちの姿も目についた。国電が絶えず目の下を走り抜けて行ったが、電車のすさまじいひびきさえ遠くの物語と聞こえるようなのんびりとした風景だった。

「いたずら」原田康子 集英社文庫

美しい文章。
このときの京子は、ベレー帽にコート、踵の低い靴に赤い革の鞄で、いかにも学生、といった感じ。
卓次はそばの京子を見ていて、「良種の仔犬かあるいは新鮮な花か果実をとつぜん天からさずけられたような気」になる。

「本当の恋人」ではないはずなのに、お芝居のはずなのに、会うたびに、二人の関係は微妙に変化しはじめる。

卓次と青木は同期で、入社して七年、二人とも独身である。
青木は適当に女たちとつきあい、その顛末を、会社の屋上で卓次に話すような男。
けっして「陰険な色事師」というわけではない。
しかし彼は、本当に愛する対象を持たないまま、ふらふらとそこらへんをさまよっているだけの男なのだ。

副島卓次は、退屈で平凡な日常を送っている。
学生の頃に人妻とつきあったらしいが、その恋が終わった後、彼は真剣な恋愛を避けていた。
今のところは会社というものに仕え、そして、酒場の女と適当に触れ合って日々をやり過ごしている。
彼も青木と同じように、本当に夢中になれるものが、つまり、愛する対象がないのだ。

その二人の前に現れたのが、この娘・・・良種の仔犬か、新鮮な花か果実のような娘、乙部京子なのだ。
しかしやがて、卓次が京子とつきあっているらしい、という噂が、青木の耳に入ることになる。

原田康子は1928(昭和3)年生まれ。
生まれは東京だが、その後、北海道に移り、東北海道新聞社で働く。
1957(昭和32)年、「挽歌」がベストセラーになり、映画化もされる。

集英社文庫の「いたずら」が出版されたのは1978(昭和53)年。
表題作以外に四篇、収録されている。
作品には少々古いと感じるところがあり、たとえば、「夜の出帆」などは、若い女の子が男の子を指さして、「ギャルソン」などと言うところがあるのだが、読んでいてちょっと恥ずかしい。

でも、やはり表題作の「いたずら」は、読む価値がある。
何よりも、乙部京子が本当に、魅力的なのだから。
彼女のファッション、それから、ちょっとした台詞やしぐさなどの描写の何もかもに、惹きつけられる。
彼女を好きにならないほうがどうかしている、せっかくつかまえたのに手放してしまうのはもっと馬鹿だ、と思ってしまうほどである。












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イブスキ・キョウコ
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