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ジュディの物欲を100%肯定して、「あしながおじさん」を読んでみる。

子供の頃に読んだ本を大人になって再読してみると、さまざまなことに気づく。
おもしろい発見があったり、また、こちらに「知識」が増えたおかげで、子供の頃とは違う、もっといろんな視点から読むことも可能だ、とわかるようになる。

たとえば、「あしながおじさん」。

「この時代の、女性の地位について・・・」
「この時代における、女性の教育について・・・」
「孤児院育ちであるジュディの、貧しい人たちへの眼差しについて・・・」
「ジュディの、『私は社会主義者』という発言について・・・」

などなど、いろんなテーマが、頭に浮かぶ。

しかし私は、「あしながおじさん」は物欲に目覚めていく女の子の話としても読めるのでは、と思っている。

といっても、もちろん、ジュディのことを、「おじさま」からのお小遣いを浪費する軽薄な女の子、としてとらえているわけではない。
ジュディは、物欲に目覚めていくと同時に、あらゆる面で目覚めていっていることは、たしかなのだ。

大学へ入ってから、もらったお小遣いで買い物を楽しむ彼女は、やはり、とても幸せそうだ。
また、それまで経験することのなかった出来事の数々に、彼女がワクワクしている様子、さまざまな喜びに目覚めていく、その過程も、読んでいて、正直、とてもおもしろい。

まず、ジュディは大学へ入ってからまもなく、「おじさま」に、自分が今、新しい服を六着も持っている、ということ、そしてこれが、孤児である自分にとってどんなにうれしいことかを強調している。

そののち彼女は、銀の時計、湯たんぽ、毛布、原稿用紙などを買ったと「おじさま」に報告し、そして最後に、恥ずかしそうに、絹の靴下を買ったこと打ち明ける。
ジュディは、友人のジュリアが履いている絹の靴下がうらやましくてしかたがなかったのである。
ここで彼女は、絹の靴下を欲しいと思った理由を「あさましい」と書いているが、「いや、それくらい、いいじゃないの」と言ってあげたい。

孤児だったジュディの心を満たすのは、物だけではない。
人との、出会いもある。
彼女は、大学をたずねてきたジュリアの親戚、ジャービスさんを紹介され、二人でお茶を飲む機会に恵まれる。
ジュディはジャービスさんに、ホテルのバルコニーで「お茶とマフィンとマーマレードとアイスクリームとケーキ」をごちそうしてもらうのだ。
後日、ジュリアやジュディ宛てに、ジャービスさんからチョコレートの箱が届き、ジュディは、「男性からチョコレートをもらうなんて!」と、ぽうっとなってしまう。

楽しいことは、まだまだ続く。

ジュディは、友人たちと一緒にニューヨークを訪れた際にショーウィンドウを眺めて、「おしゃれに一生を捧げたくなりました」などと、手紙に書くようになる。

また別のときには、スティーブンソンの言葉を引用して、「すてきな考えだと思いませんか」と「おじさま」に問いかける。

世界にはとてもたくさんのものがあふれている。
われわれはみな王のようにしあわせであるべきだとわたしは思う。

「あしながおじさん」J・ウェブスター 新潮文庫

この、「たくさんのもの」というのはもちろん、「物」のことを言っているのではない。ジュディが自身の身の上に起きたすべての幸運を、喜び、かみしめているのは明らかだ。そしてどんどん、幸せになっているようだ。

また、「靴墨と、服のカラーと、新しいブラウスの布地と、バイオレット・クリームと、キャスティール石鹸」を買ったと「おじさま」に報告し、「どれもとても必要なもので、これがないとたとえ一日でもしあわせに過ごすことができません」とつけくわえている。なるほど、好きなものを買えるようになって、ほかの女の子たちと同様、自分の「お気に入り」ができたようだ。

また、ジュディは、創立者主催のダンスパーティで、自分をはじめ、友人たちがどんな服を着たかを詳細に書き綴っている。
「おじさま」が、女の子たちの服装について書かれたものを楽しんで読んだかどうかは知らないが、でも、読者としてはうれしい。
どんな色でどんな布地なのか、刺繍や縁飾りがどうだとか、そういった「どうでもいいようなこと」を細かく描写してある箇所こそ、おもしろいのだから!

この手紙の終わりの部分でジュディは、「おじさま」に、「私が最近発見した秘密」を書く。
それは、何かというと・・・。

わたしは美人です。
わたしは美人なんです。ほんとうに。部屋に鏡が三つあるのに、それに気づかなかったら、私はかなりのおばかさんです。

「あしながおじさん」J・ウェブスター 新潮文庫

ジュディはすっかり、おしゃれで華やかな女の子になり、そのうえ、自分が美人ということにも気づき、自信も獲得したわけだ。
おめでとうジュディ、よかったね。

もちろん、ジュディが、あっというまに別人に生まれ変わることができた・・・というわけではない。
ジュディが物欲に目覚めていく過程でも、孤児であるという引け目、それからいきなり恵まれた身の上になったことへのとまどい、罪悪感、遠慮などが、ちらちらと顔を見せ、彼女につきまとう。

「おじさま」から休暇中にヨーロッパ行きをすすめられても、それを断って経済的自立のため家庭教師をはじめたり、もらった小切手を送り返したり、また、クリスマスプレゼントを十七個ももらったときはさすがに、「いけません」と言ったりしている。
(彼女はその後、貧しい人々のためにお金を使っている。バランスがとれていればそれでいいのだから、ジュディよ、受けとるときは素直に受け取っていいんですよ、と声をかけてあげたい)

しかしこの過程でジュディは、自分は受けとっていいのだ、そういう価値のある人間なのだ、と、じょじょに、自分に許可が出せるようになっていっているようにも見える。

そして、最後には最も大きなプレゼントが、彼女を待っている。

「あしながおじさん」が読み継がれている理由は単純で、「こんなにうまくいっていいのか」と言われそうなハッピーエンドだから、であろう。
先に書いたように、「あしながおじさん」はさまざまな視点で読むことができる。でも、小難しい理屈を捨てて、孤児の女の子が幸せになっていくその様子を、ただ単純に楽しむためにこの小説を読むのも、いいと思う。

ちょっとよけいな話だが、私は、「あしながおじさん」のジュディ、というと、ロシアのモデル、ナタリア・ボディアノヴァのことを思い出してしまう。
彼女は貧しい家庭に生まれ、路上で果物を売っているところを、スカウトされた。
その後、モデルとして活躍し英国貴族と結婚、出産、離婚。
しかしそのあとフランスの御曹司と再婚し、今現在、幸せな家庭生活を営みつつ、モデルの仕事と児童福祉活動に忙しい日々を送っている、とのこと。

現実では、フィクションよりも、もっとずっとすごいことが、起こるのだ。







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イブスキ・キョウコ
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