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02 黙って寄り添ってくれる存在🌿

むかーしの話。
大学受験に失敗した翌日、
家で私のそばにいたのは、曾祖父だった。

私が受験中なんて知らない。興味がない。
冷たい人というわけではなく、そんな人。
家族と特別コミュニケーションを取ることもなく、毎日こたつのところにいて、
  キセルでたばこを吸い、
    手帳に何かメモをして、
      あとはボンヤリと寝ている。
そんな曾祖父が、この日、ただそこにいてくれるだけで、有り難かった!

私が辛いと知らない。
特に気を遣うでもなく、いつも通り。
黙っていつもの場所にいる。いてくれている。

慰めてほしいわけではないけど、誰かにそばにいてほしいそんな時ってあるよね。
これが、
私が辛いとわかっている人がそばにいたならば、
ただ時間が薬となる、
癒される時を過ごせなかったかも…。

もっと年月をさかのぼる。

私が小さな子どもだったころ

母は私が赤ちゃんの頃から働いていて、
私の面倒は主に祖母が見ていてくれた。
いつもいつも一緒にいてくれるわけではないから、
昼間
畳の上で寝転がって、
窓ガラスの先に見える庭の木々🌿をじーっと眺めて、ボーッとしていたのを覚えている。
いつのまにか寝ていることもあった。

今思うと、庭の木々🌿は、黙って私に寄り添ってくれてる存在だったのかな?
ここちよかった。
窓から見える木々のgreen 🌿は、
光の差し加減や、そよ風が吹いたりで、
白い光と混ざりあって輝いていた。
子どもながらにそのときの感性で、
またここに転がってこうしていよう!と思うほどの
魅力を感じていたんだと思う。

ずっと先の事、もしかしたら…


この頃、認知症のご本人や、そのご家族と接する機会が増えていて、今朝、ふとポッと思ったことです。

この先、私が認知症が進み、
ボーッとしてただ座っているだけ、
寝てるだけのおばあちゃんになってしまったとして

例えば、
まだ存在すらないですが(笑)
孫に辛いことがあって、
何にも知らないおばあちゃんのところにやってきて癒される時を過ごしてくれるようなことがあるならば、
それも悪くないなと…。

私も木🌿のような存在になれる日が来るならば
幸せだなぁ~。

今朝、通勤中に私のお気に入りの街路樹の通りを
チャリでこぎながらそんなことを思ってました。(top写真は、その街路樹の松です!)

 






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